わん》を手にした人達があちこちの椅子に腰掛けて思い思いに話していた。その中で岸本は老婦人の口から、東京の方にあるマドマゼエルの結婚の話を聞いた。
老婦人は心配顔に、
「あの手紙を持って来て御覧」
と細君に言った。細君は家の正面にある石階《いしだん》を上って行って、日本から来た手紙をそこへ持って来た。
「お母さん、滝《たき》という方ですよ」と細君はマドマゼエルの手紙を見て言った。
「岸本さんは滝さんという美術家を御存じですか」と老婦人が訊《き》いた。
「滝という苗字《みょうじ》の美術家なら二人あることは知ってますが、しかし私は直接にはよく知りません」
この岸本の答は一層老婦人を不安にしたらしかった。
「岸本さんですらよくは御存じないと仰《おっしゃ》る」
と老婦人は細君と眼を見合せて、姪が結婚するという美術家はどういう日本人であろうという意を通わせた。仏蘭西の方に居てマドマゼエルの為にほんとうに心配している人は、何と言ってもこの叔母さんらしかった。その時岸本は、「姪がああして日本の方へ行ってしまったのは、私が悪いのだ、私の落度だ、と言って皆が私を責めます」と曾《かつ》て老婦人が彼に言ったことを思い出した。事情に疎《うと》い外国の婦人の身をもって、果して適当な配偶者を異郷に見出《みいだ》すことが出来たであろうか、こうした掛念《けねん》がありありと老婦人の顔に読まれた。
「この滝さんは巴里に遊学していらしったことも有るそうです。手紙の中にそう書いてあります」
と細君が言って、マドマゼエルの手紙をひろい読みして聞かせる中に、岸本に取っては親しい東京の番町の友人の名が出て来た。番町の友人の紹介で、マドマゼエルがその美術家を知ったらしいことも分って来た。
「日本で結婚するなんて、儀式はどうするんでしょう、宗教はどうするんでしょう――マドマゼエルも唯《ただ》一人でさぞ困ることでしょうね」
と細君が言えば、老婦人もその尾に附いて、
「可哀そうな娘」
とつぶやいた。
「とにかく、日本の若い美術家も多勢巴里に来ていることですし、私がその滝さんのことを訊いて進《あ》げましょう。マドマゼエルだってしっかりした人ですから、下手《へた》な事をする気遣《きづか》いはありませんよ」
こう岸本は老婦人や細君を言い慰めた。
間もなく主人と前後して、日本の弁護士がそこへ入って来た。老婦人
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