十八

 発《た》つ発つという噂《うわさ》があって発てなかった美術学校の助教授がいよいよ北の停車場《ステーション》から帰国の途に上るという日は、ほんとうに人を送るような思いをして岸本も停車場まで出掛けて行った。その日は巴里に在留する美術家仲間は大抵集まった。送られる助教授は帰って行く人で、送る連中は残っているものだ。旅の心持は送るものの方にも深かった。丁度遠い島にでも集まっているもののところへ迎えの船が来て、ある一人だけがその船に乗ることを許されたように。助教授は若い連中からも気受の好い人であった。日本飯屋のおかみさんの家に外国人を混ぜずの無礼講の会でもあって、無邪気な美術家らしい遊びに皆旅の憂《う》さを忘れようとする場合には、助教授は何時でも若いものと一緒になって歌った。このさばけた先達《せんだつ》を見送ろうとして、よく鎗錆《やりさび》を持出した画家と勧進帳《かんじんちょう》を得意にした画家とはダンフェール・ロシュルュウの方面から、口三味線《くちじゃみせん》の越後獅子《えちごじし》に毎々人を驚かした画家はモン・パルナッスから、追分《おいわけ》、端唄《はうた》、浪花節《なにわぶし》、あほだら経、その他の隠し芸を有《も》った彫刻家や画家は各自《めいめい》に別れ住む町々から別離《わかれ》を惜みに来た。岡はまた帰国後の助教授の口添に望みをかけて、あきらめ難い心を送るという風であった。こんな場合ででもなければめったに顔を合せることも無いような美術家とも岸本は一緒になった。仏蘭西《フランス》の婦人と結婚して六七年も巴里に住むという彫刻家にも逢った。亜米利加《アメリカ》の方から渡って来て画室|住居《ずまい》するという小柄な同胞の婦人の画家にも逢った。
 助教授を見送って置いて、岸本は地下電車でヴァヴァンの停留場へ出た。彼は所詮《しょせん》国へは帰れないという心を切に感じて来た。その心は国の方へ帰って行く人を見ることによって余計に深められた。ヴァヴァンから下宿をさして歩いて行くと、丁度|羅馬《ローマ》旧教のコンミュニオンの儀式のある頃で、ノオトル・ダムの分院の前あたりで寺参りの帰りらしい幾人《いくたり》かの娘にも行き逢った。清楚《せいそ》な白衣を着た改まった顔付の処女《おとめ》等は母親達に連れられて幾組となく町を歩いていた。彼はこの知らない人ばかりの国へ来てこれから先の自分の生涯
前へ 次へ
全377ページ中112ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング