@ 七十五
親さえなくば国の方へは帰りたくないという岡を自分の身に思い比べながら、やがて岸本はその画室を出て天文台前の方へ戻って行った。
「皆《みんな》旅に来て苦労するのかなあ」
思わずそれを言って見て、パスツウルの通りからモン・パルナッスの停車場《ステーション》へと取り、高架線の鉄橋の下をエドガア・キネの並木街へと出、肉類や野菜の市《いち》の立つ町を墓地の方へ行かずにモン・パルナッスの通りへと突切《つっき》った。並木のかげに立つネエ将軍の銅像のあるあたりは朝に晩に岸本の歩き廻るところだ。六方から町の集まって来ている広場の一方にはルュキサンブウルの公園の入口を望み、一方には円《まる》い行燈《あんどん》のような天文台の石塔を望んだ。そこまで行くと、下宿も近かった。
「東京の友達もどうしているだろう――」
こう思いやって、乾《かわ》き萎《しお》れたようなプラタアヌの若葉の下を歩いて行った。
岸本に取っては旅の心を引く一つの事蹟《じせき》があった。他でもない、それはアベラアルとエロイズの事蹟だ。英学出の彼はあの名高い学問のある坊さんに就《つ》いて精《くわ》しいことは知らなかった。でも彼がアベラアルの名に親しみ始めたのはずっと以前のことである。アベラアルとエロイズの愛。どれ程青年時代の岸本はその奔放な情熱を若い心に想像して見たか知れない。あの学問のある尼さんのためには男も捨て僧職も擲《なげう》ったというアベラアルの名はどれ程若かった日の彼の話頭に上ったか知れない。
岸本は同宿するソルボンヌの大学生の口から、その仏蘭西の青年の通っている古い大学こそ往昔《むかし》アベラアルが教鞭《きょうべん》を執った歴史のある場所であると聞いた時は、全く旧知に邂逅《めぐりあ》うような思いをしたのであった。その事を胸に浮べて、彼は自分の部屋に帰った。旅の鞄《かばん》に入れて国から持って来た書籍《ほん》の中には昔を思い出させる英吉利《イギリス》の詩人の詩集もあった。その中にあるアベラアルとエロイズの事蹟を歌った訳詩の一節をもう一度開けて見た。
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〔"Where's He'loise, the learned nun,〕
For whose sake Abeillard, I ween,
Lost manhood and put priesthood on ?
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