謗コの壁には岡がブルタアニュの海岸の方で描いたという一枚の風景画が額縁なしに掛けてあった。何時来て見てもその油絵だけは取除《とりはず》さずにあった。岸本はその前に立って岡と話し話し眺め入《い》っているうちに、やがて町から罎を提《さ》げた娘が戻って来た。
「この娘《こ》は姉妹《きょうだい》ともモデルに雇われて来ます。この娘は妹の方です。頼めばこうして酒の使ぐらいはしてくれますが、平素《しょっちゅう》遊びにやって来て騒いで仕方がありません」と岡は岸本に言って見せた。
娘は通じない日本の言葉で自分の噂をされるのを聞いて、笑って出て行った。岡は暖炉の側へテエブルを持出し、そこにビイルを置いて、国の方にある親達の噂をした。
「親というものにかけては、僕はどのくらい幸福を感じているか知れません。両親ともよく気が揃《そろ》っています。それは僕を力にしていてくれます。こないだもお母《っか》さんのところから手紙を貰《もら》いました。『お父さんも大分年を取ったし、お前一人を力にしているんだから、お前もそのつもりでなるべく早く帰って来るように心掛けていておくれ』ッてお母さんの方から書いてよこしました。親さえなかったら、僕は国へ帰りたくは有りません。国の方の消息を聞くことは苦痛です。寧《むし》ろ僕は長く巴里に留りたいと思います。例の一件の時も、親達がどのくらい僕のために心配していてくれたか知れません。僕は愛人の最終の手紙を親達の家の方で受取りました。しかもその手紙はあの人のお母さんか姉さんが吩咐《いいつ》けて書かしてよこしたらしい手紙です。別れの手紙です。『こういうものが来てる』ッて、お父さんが心配顔に渡してくれましたから、僕は二階へ持って行ってそれを読みました……何時まで経っても僕が二階から降りて行かないでしょう、お父さんもお母さんも心配してしまって、お燗《かん》を一本つけて置いて僕を階下《した》へ呼んでくれました。酒の香気《におい》を嗅《か》いで見ると、僕も堪《たま》らなくなって、独《ひと》りでしくしくやり出しました。お父さんは散々僕を泣かして置いて黙って視《み》ていましたが、終《しまい》に何を言出すかと思うと、その言草が好いじゃ有りませんか。『貴様も、女運《おんなうん》の無い奴だなあ』ッて……」
岡は父親の言ったという言葉を繰返して見て、自ら嘲《あざけ》るように笑った。
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