z《カンバス》のそのままにして部屋の隅に置いてあるのを暖炉の側から眺めながら、
「岸本さん、僕はこの節お念仏を唱えていますよ――そういう心持に成って来ていますよ」
 どうにでも釈《と》れば釈れるようなことを岡は言出した。岡は更に言葉を続《つ》いで、
「巴里へ来てから、僕の有《も》ってる旧《ふる》いものはすっかり壊《こわ》れてしまいました。見事にそれは壊れてしまいました。そんならどういう新しい道を取って進んだら可いかというに、それがまだ僕には見つかりません。僕はそれを待つより外に仕方がありません。それが僕の心に象《かたち》を取るまで、あせらずに待つより外に仕方がないと思います。旅は僕を他力宗の信者にしました。僕はお念仏を唱えて、日々進んで行って見ようと思います。僕は国の方に居るお父《とっ》さんのところへ手紙を書いてやりました――僕のお父さんというのは、それは僕のことを心配していてくれますからね――『お父さん、この節はお念仏を唱えるような心になりましたから、そんなに心配しないで待っていて下さい』ッて、ね」

        七十四

 運命に忍従しようとする岡の話は芸術の生涯に関したことではあったけれども、何となく岸本の耳にはこの画家の熱い、烈《はげ》しい、しかも失われた恋に対する心の消息を語るようにも聞き做《な》された。意中の人との別れ際《ぎわ》に「安心していても好いでしょうね」と念を押して「ええ」という堅い返事を聞いたという岡、それぎり彼女を見ることも叶《かな》わなかったという岡、これほど相許した心のまことを踏みにじろうとする彼女の母親は悪魔であるとまで憤慨した手紙を送ったという岡、巴里へ来てからも時々彼女の兄を殺そうとするような夢を見て眼が覚《さ》めては冷たい汗を流すという岡、その岡の口唇《くちびる》から「旅は僕を他力宗の信者にしました」という声を岸本は聞きつけた。
 その時、画室の外からコンコンと扉を軽く叩《たた》く音をさせて、半身ばかりを顕《あらわ》した貧しい感じのする仏蘭西人の娘があった。帽子も冠らずにいるその娘は画室の内《なか》の様子を見て直にも立去ろうとしたが、それを岡が呼留めた。岡は部屋の片隅から空罎《あきびん》を探して来て、ビイルを買うことをその娘に頼んだ。
「モデルかね」と岸本が訊いた。
「ええ、時々使ってくれないかって、ああしてやって来ます」
 
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