tれた。
 町々の若葉の間を歩き廻って、もう一度岸本が下宿の方へ帰って行った時は、無駄な骨折に疲れた。彼は自分の部屋へ行って独りで悄然《しょんぼり》と窓側《まどぎわ》に立って見た。曾《かつ》て信濃《しなの》の山の上で望んだと同じ白い綿のような雲を遠い空に見つけた。その春先の雲が微風に吹かれて絶えず形を変えるのを望んだ。親しい友達の一人も今は彼の側に居なかった。国から持って来た仕事もとかく手に着かなかった。その中でも彼は東京の留守宅への仕送りをして遠く子供を養うことを忘れることは出来なかった。そろそろ自分も懐郷病《ホームシック》に罹《かか》ったのか、それを考えた時は実に忌々《いまいま》しかった。どうかすると彼は部屋の板敷の床の上へ自分の額を押宛《おしあ》てて泣いても足りないほどの旅の苦痛を感じた。

        七十三

 モン・パルナッスの墓地の側を通過ぎて、岸本は岡の画室の前へ行って立った。
 青黒い色に塗った扉《と》を内から開ける鍵《かぎ》の音をさせて、岡が顔を見せた。鶯《うぐいす》の鳴声でも聞くことの出来そうな巴里の場末の方へ寄った町の中に岡の画室を見つけることは、来て見る度《たび》に旅の不自由と暢気《のんき》さとを岸本に思わせた。「老大《ろうだい》」と言って、若い連中から調戯《からか》われるのを意にも留めずにいた岡等より年長《としうえ》の美術家もあったが、その人の一頃《ひところ》住んだ画室も同じ家つづきにある。
「岸本さん、火でも焚《た》きましょう」と岡は款待顔《もてなしがお》に言って、画室の片隅に置いてある製作用の縁《ふち》を探しに行った。
「もう君、火も要《い》らないじゃないか」と岸本が言った。
「でも、何だか火が無いと寂しい――」
 岡は画布《カンバス》を張るための白木の縁を岸本の見ている前で惜気もなくへし折って、それを焚付《たきつけ》がわりに鉄製の暖炉の中へ投入れた。画架やら机やら寝台やらが置いてある天井の高い部屋の内には火の燃える音がして来た。岸本はその側へ椅子を寄せて、
「今日は君を見たくなって一寸《ちょっと》やって来ました」
「好く来て下さいました。僕はまたあなたを訪ねようかと思っていたところでした」と岡が言った。
 激情に富んだ岡は思わしい製作も出来ずに心の戦いのみを続けている苦い懶惰《らんだ》を切なく思うという風で、新しく張った大きな画
前へ 次へ
全377ページ中105ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング