ト見えた。娘は岡の側へ来て、微笑《えみ》を見せながら白い処女《おとめ》らしい手を差出した。それから岸本のところへも握手を求めに来た。この娘がシモンヌであった。
岸本が知っているかぎりの美術家仲間はよくこの娘の家へ集まった。その中でも岡はしばしば画室の方から足を運んで来て、この家の亭主を見、主婦を見、両親の愛を一身にあつめているようなシモンヌを見ることを楽しみにして、部屋のテエブルの上に注文したコニャックの盃《さかずき》などを置きながら、そこで故郷への絵葉書を書いたり手紙を書いたりした。悲哀《かなしみ》の持って行きどころのないようなこの画家は、あいびきする男女の客や人を待合せる客のためにある奥の一室を旅の隠れ家《が》ともして、別れた意中の人の面影を僅《わずか》に異郷の少女に忍ぼうとしているかのように見えた。
七十
その小さな珈琲店はヴァル・ド・グラアスの陸軍病院の方からサン・ミッシェルの並木街へ出ようとする角のところに当っていて、狭い横町の歩道を往来する人の足音が岸本等の腰掛けた部屋から直《す》ぐ窓の外に聞えていた。
よく働く仏蘭西の婦女《おんな》の気質を見せたような主婦《かみさん》は決して娘を遊ばせては置かなかった。何時《いつ》来て見ても娘は店を手伝っていた。しかし主婦は四方八方に気を配っているという風で、客の注文するものもめったに娘には運ばせなかった。店がいそがしくて給仕の手の明いていないような時には、主婦の妹が奥の部屋へ用を聞きに来た。さもなければ主婦自身に珈琲なぞを運んで来た。どうかすると奥の部屋の片隅《かたすみ》では親子|揃《そろ》っての食事が始まる。シモンヌも来て腰掛ける。客商売には似合わないほど堅気な温かい家庭の図が見られることがある。こうした部屋に旅人らしく腰掛けて、岸本は岡から娘の噂《うわさ》を聞いた。
「あれで主婦《かみさん》はどれ程娘を大切にしてるか知れないんですね。僕がシモンヌを芝居に誘ったことが有りました。それをシモンヌがお母さんのところへ行って訊《き》いたというもんでしょう。その時主婦は、『そんなことが出来るものかね』と言ったような顔付をしましたっけ」
「今が可愛いさかりだね」と岸本も言った。
「あれで大きくなったら、反《かえ》っていけなくなるかも知れません。ほんとに、まだ子供だ。あそこがまた可愛いところだ」
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