トから以来《このかた》、ろくろく画を描く気にすらならないというほど心の戦いを続けて来た岡の顔を見ていると、岸本は余計に外国生活の無聊《ぶりょう》な心持を引出された。

        六十九

「国の方で炬燵《こたつ》にでもあたっている人は羨《うらや》ましいなんて、よくそんな話を君にしましたっけが、もうそれでもパアク(復活祭)が来るように成りましたね」
 こう岸本は岡に言って、やがて連立って下宿を出た。旅で逢《あ》う羅馬《ローマ》旧教の祭が来ていた。帽子から衣裳《いしょう》まで一切黒ずくめの風俗の女達が寺詣の日らしく町を歩いていた。天文台前の広場に近い町の角あたりまで行くと、並木はそこで変って、黄緑な新芽の萌《も》え出したプラタアヌの代りに、早や青々とした若葉を着けたマロニエが見られる。
「もうマロニエの花が咲いていますよ」
 と岡は七葉の若葉の生《お》い茂って来た黒ずんだ枝の上の方を岸本に指《さ》して見せた。白い蝋燭《ろうそく》を挿《さ》したような花がその若葉の間から顔を出していた。
「これがマロニエの花ですか」と岸本が言った。
「どうです、好い花でしょう」
「京都大学の先生がストラスブウルから葉書をくれてね、『マロニエが咲いたらなんて話がよく出たからどんな花かと思ったら、つまらない花ですねえ』なんて書いてよこした。これをけなすのは少し酷《ひど》い」
 一つ一つ取出して言う程の風情《ふぜい》があるではないが、旅人としての岸本はどこか寂しいその花のすがたに心を引かれた。
「去年の今頃は、丁度僕は船でしたっけ」
 と岸本はそれを岡に言って見せた。二人の足はビリエーの舞踏場の前から、ある小さな珈琲店《コーヒーてん》の方へ向いた。小ルュキサンブウルの並木を前にして二人ともよく行って腰掛ける気の置けない店があった。そこが岡の言う「シモンヌの家《うち》」だ。
 店先には葡萄酒《ぶどうしゅ》の立飲をしている労働者風の仏蘭西《フランス》人も見えた。帳場のところに居た主婦《かみさん》は親しげな挨拶《あいさつ》と握手とで岡を迎えた。
 奥にはテエブルを並べた一室があった。岡と岸本とがそこへ行って腰掛けようとすると、二階の方から壁づたいに階段を降りて来る十六七ばかりの娘があった。パアクの祭の日らしく着更《きか》えた仏蘭西風の黒い衣裳は、瘠《やせ》ぎすで、きゃしゃなその娘の姿によく似合っ
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