フ胸の底に住む秘密を知るように成った。この男の熱意も、誠実も、意中の人の母や兄の心を動かすには足りなかったことを知るように成った。堅く相許した心のまことを置いて、この世の何物が人を幸福ならしめるであろう、そうした遣瀬《やるせ》ない心の述懐には岡は殆《ほとん》ど時の経《た》つのを忘れて話した。意中の人の母に宛《あ》てた激しい手紙を残し、その人の兄とも多年の親しい交りを絶って、そして国を出て来たというこの男の憤りと恨みとはいかなる寛恕《かんじょ》の言葉をも聞入れまいとするようなところがあった。湯沸の湯が煮立った。岸本は町から求めて来た仏蘭西出来の茶碗《ちゃわん》なぞを盆の上に載せ、香ばしいにおいのする国の方の緑茶を注《つ》いで岡に勧めた。
 この画家の顔を見ていると、きまりで岸本の胸に浮んで来る年若な留学生があった。ギャラントという言葉をそのまま宛嵌《あては》め得るような、巴里に滞在中も黄色い皮の手套《てぶくろ》を集めていたことがまだ岸本には忘れられずにある青年の紳士らしい風采《ふうさい》をしたその留学生は、ある身上話を残して置いて瑞西《スイス》の方へ出掛けて行った。留学生は国の方で深くねんごろにした一人の若い婦人があったと言った。深窓に人となったようなその婦人は現に人の妻であるとも言った。私費で洋行を思立った留学生が日本を出る動機の中には、すくなくもその若い夫人との関係が潜んでいるらしい口振《くちぶり》であった。その夫人の妊娠ということにも留学生は酷《ひど》く頭をなやましていた。留学生がしばらく巴里に居る間にはよくその話が出て、岡もそれを聞かせられたものの一人であった。
「女のことで西洋へ来ていないようなものは有りゃしません――」
 そこまで話を持って行かなければ承知しないようなのが岡だ。それほど岡には山国の農夫のような率直があった。
 岡は飲み干した茶碗を暖炉の上のところに置いて、
「昨夜は乞食《こじき》モデルが二三人僕の画室へ押掛けて来ました。勝手にそこいらにある物を探して、酒を奢《おご》らないかなんて言出しやがって……きたないモデルめ……でも酒を飲ましてやりましたら、皆で唄なぞを歌って聞かせましたっけ。それを聞いていたら終《しまい》には可哀そうになっちまいました……」
 こんな話をして聞かせる岡の旅は在留する美術家仲間でも骨が折れそうであった。おまけに仏蘭西へ来
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