vわずにはいられなかった。
毎日のように並木街をうろうろしている不思議な婦人が窓の硝子を通して彼の眼に映った。恐らく白痴であろうと下宿の食堂に集る人達は噂《うわさ》し合って、誰が命《つ》けるともなく「カロリイン夫人」という名を命けていた。「カロリイン夫人」は紅《あか》い薔薇《ばら》の花のついた帽子を冠《かぶ》り、白の手套《てぶくろ》をはめ、朝から晩までその界隈《かいわい》を往《い》ったり来たりしていた。何を待つかと他目《よそめ》には思われるようなその婦人の姿を窓の下に見つけたことは、一層岸本の心を異郷の旅らしくさせた。
「姪《めい》ゆえにこんな苦悩と悲哀とを得た」
ある仏蘭西の詩人が歌った詩の一節になぞらえて、彼は自分で自分の旅の身を言って見た。丁度そこへ岡という画家が訪ねて来た。
六十七
岡は今更のように岸本の部屋を眺め廻した。壁紙で貼《は》りつめた壁の上には古めかしく大きな銅版画の額が掛っていた。「ソクラテスの死」と題してあって、あの哲学者の最後をあらわした図であったが、セエヌの河岸通《かしどお》りの古道具屋あたりに見つけるものと大して相違の無いような、仏蘭西風の銅版画としては極く有りふれたものであった。岸本が一年近い旅寝の寝台《ねだい》はその額の掛った壁によせて置いてあった。
「この部屋に掛っている額と、岸本さんとは、何の関係があるんです――」
岡は画家らしいことを言って、ロココという建築の様式が流行《はや》った時代のことでも聯想《れんそう》させるような古い版画を眺めた。
「ここの下宿のおかみさんが、あれでも自慢に掛けてくれたんでさ」と岸本が言った。
「ああいうものが掛っていても、岸本さんは気に成りませんかね」
「この節は君、別に気にも成らなくなりましたよ。有っても無くても僕に取っては同じことでさ。旅では君、仕方が無いからね」
国に居た頃から見ると岸本はずっと簡単な生活に慣れて来た。巴里に着いたばかりの頃は外国風の旅館や下宿の殺風景に呆《あき》れて、誰も自分の机の上を片付けてくれる人もないのか、とよくそんな嘆息をしたものであったが、次第に万事人手を借りずに済ませるように成った。着物も自分で畳めば、鬚《ひげ》も自分で剃《そ》った。一週に一度の按摩《あんま》は欠かすことの出来ないものであったが、それも無しに済んだ。彼はずっと昔の書生に
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