タ際人の力でどうすることも出来なかった。
死を思わせるほど悩ましい節子の様子から散々に脅《おびや》かされた岸本は、今|復《ま》た彼女から生れて来るものの力に踏みにじられるような心持でもって、時々節子をいたわりに行った。節子は娘らしく豊かな胸の上あたりを羽織で包んで見せ、張り満ちて来る力の制《おさ》えがたさを叔父に告げた。彼女の恐怖、彼女の苦痛を分つものは叔父一人の外に無かった。
「御免下さいまし」
という親戚《しんせき》の女の声を表口の方に聞きつけたばかりでも、岸本は心配が先に立った。
根岸の姪《めい》――民助兄の総領娘にあたる愛子が引越|間際《まぎわ》の取込んだところへ訪ねて来た。輝子や節子が「根岸の姉さん」と呼んでいるのは、この愛子のことであった。愛子は岸本の許へ何よりの餞別《せんべつ》の話を持って来てくれた。それは台湾の父とも相談の上、叔父の末の児(君子)を自分の妹として養って見たいというのであった。
「いろいろ父も御世話さまに成りましたし……それに叔父さんも外国の方へいらっしゃるようになれば、君ちゃんの仕送りをなさるのも大変でしょうと思いましてね……」
この愛子のこころざしを岸本は有難《ありがた》く受けた。
「そう言えば叔父さんの髪の毛は――」と愛子は驚いたように岸本の方を見て言った。「まあ、白くおなんなすったこと。この一二年の間に、急に白くおなんなすったようですね」
「そうかねえ、そんなに白くなったかねえ」
岸本は笑い紛わした。
この「根岸の姉さん」の前で見る時ほど、節子の改まって見えることは無かった。それは節子にのみ限らなかった。姉の輝子とても矢張《やはり》その通りであった。同じ岸本を名のる近い親類でも、愛子と節子姉妹の間には女同志でなければ見られないような神経質があった。のみならず、節子は見る人に見られることを恐れるかして、障子のかげの炬燵の方にとかく愛子を避け勝ちであった。
「君ちゃんの許《とこ》へ一つ送ってやって貰いましょうか」
と言いながら、岸本は亡《な》くなった長女の形見として箪笥《たんす》の底に遺《のこ》ったものを愛子の前に取出した。罪の深い叔父は、自分の女の児を引取って養おうと言ってくれる一人の姪の手前をさえ憚《はばか》った。
三十六
住慣れた町を去る時が来た。泉太や繁の母親が生きている頃と殆《ほとん》ど
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