o来るサ」と泉太は事もなげに言った。
「父さんが居なくたって、お節ちゃんはお前達と一緒に居るし、今に伯母さんや祖母《おばあ》さんも来て下さる」
「お節ちゃんは居るの」と繁が節子の方を見て訊《き》いた。
「ええ、居ますよ」
節子は言葉に力を入れて子供の手を握りしめた。
何時《いつ》伝わるともなく岸本の外遊は人の噂に上るように成った。彼は中野の友人からも手紙を貰った。その中には、かねてそういう話のあったようにも覚えているが、こんなに急に決行しようとは思わなかったという意味のことを書いて寄《よこ》してくれた。若い人達からも手紙を貰った。その中には、「母親のない幼少《おさな》い子供を控えながら遠い国へ行くというお前の旅の噂は信じられなかった。お前は気でも狂ったのかと思った。それではいよいよ真実《ほんとう》か」という意味のことを書いて寄してくれた人もあった。こうした人の噂は節子の小さな胸を刺激せずには置かなかった。諸方《ほうぼう》から叔父の許へ来る手紙、遽《にわ》かに増《ふ》えた客の数だけでも、急激に変って行こうとする彼女の運命を感知させるには充分であった。彼女は叔父に近く来て、心細そうな調子で言出した。
「叔父さんはさぞ嬉しいでしょうねえ――」
叔父の外遊をよろこんでくれるらしいこの節子の短い言葉が、あべこべに名状しがたい力で岸本の心を責めた。何か彼一人が好い事でもするかのように。頼りのない不幸なものを置去りにして、彼一人外国の方へ逃げて行きでもするかのように。
「叔父さんが嬉しいか、どうか――まあ見ていてくれ」
と岸本は答えようとしたが、それを口にすることすら出来なかった。彼は黙って姪《めい》の側を離れた。
三十四
叔父を恐れないように成ってからの節子の瞳《ひとみ》は、叔父に対する彼女の強い憎《にくし》みを語っているばかりでも無かった。どうかするとその瞳は微笑《ほほえ》んでいることもあった。そして彼女の顔にあらわれる暗い影と一緒に成って動いていた。
「妙なものですねえ」
節子はこうした短い言葉で、彼女の内部《なか》に起って来る激しい動揺を叔父に言って見せようとすることもあった。しかし岸本は不幸な姪の憎みからも、微笑《ほほえみ》からも、責められた。その憎みも微笑も彼を責めることに於《お》いては殆んど変りがなかったのである。
温暖《あたたか》
前へ
次へ
全377ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング