まで自分の側に坐らせて、昔をしのぶ端唄《はうた》の一つも歌って聞かせながら、田舎《いなか》住居のつれづれを慰めようとしたこともある。
「お三輪、お前はそれでいい。死ぬまで皆のために働いて、自分に出来るだけのことをするがいい」
そういう母の声を耳の底に聞きつけるまでは、お三輪は安心しなかった。
「おばあちゃん、東京へ行くの」
この孫の問に驚かされて、お三輪は我に返った。娵と二人ぎりになると、出ない日のない東京の方の噂《うわさ》が、いつの間にか子供の耳に入っているのにも、びっくりした。
「ああ、坊やはおとなしくお留守居しているんだよ」
と事もなげに言って見せた。
焼けない前の小竹の奥座敷を思出しながら今の部屋を見ると、江戸好みの涼しそうな団扇《うちわ》一本お三輪の眼には見当らなかった。あれも焼いてしまった、これも焼いてしまったと、惜しい着物のことなぞがつぎつぎにお三輪の胸に浮んで来る。彼女はまたよくそれを覚えていて、新七のにするつもりでわざわざ西京まで染めにやった羽織の裏の模様や、一度も手を通さず仕舞に焼いてしまったお富の長襦袢《ながじゅばん》の袖までも、ありありと眼に見ることが出
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