来た。もう一度東京へ――娘時分からの記憶のある東京へ――その考えは一日も彼女から離れなかった。それなしには落ちついて坐った気にもなれない黒柿の長手の火鉢も、古い馴染《なじみ》の箪笥も、あの都会の方には彼女を待っているように思われた。
 孫達は、と見ると、子供らしい腰につけた巾着《きんちゃく》の鈴の音をさせながら、子守娘を相手にお三輪の周囲《まわり》に遊び戯れていた。彼女は半分|独《ひと》りごとのように、
「あの秩父のお山のずっと向うの方が、東京だよ。ずっと、ずっと向うの方だよ。東京は遠いねえ」


 やがて新七もいそがしい中に僅かの暇を見つけ、一晩泊りがけで浦和まで母を迎えにやって来てくれた。その翌日は食堂の定休日にあたるというので、お三輪もやや安心して、東京の方へ向う支度をした。彼女はすこし背をこごめ、女のたしなみを失わない程度で片足ずつそこへ出しながら、白い新しい足袋をはこうとした。その鞐《こはぜ》を掛ける時に、昔は紐《ひも》のついた足袋《たび》のあったことを思い出した。その足袋の紐を結んで、水天宮さまのお参りにでもなんでも出掛けたことを思い出した。そんな旧いことが妙に彼女の胸へ来
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