た。出がけに、彼女は仮の仏壇のところへ行って、
「お母さん、行ってまいります」
と告げて行くことを忘れなかった。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
とそこへ来て言って、一緒に東京へ行きたがるのは年上の方の孫だ。お三輪はそれをどうすることも出来なかった。
「坊やも連れて行かれないかねえ」
とお三輪が言うと、新七は首を振って、
「どうして、まだそんな時じゃありませんよ」
と母にもお富にも言って見せた。
間もなくお三輪は新七に連れられて出掛けた。彼女も年をとって、誰か連れなしに独りで汽車にも乗れなかった。震災後は汽車の窓から眼に入る人家も激しく変って来ている頃であった。日に光るトタン葺《ぶ》きの屋根、新たに修繕の加えられた壁、ところどころに傾いた軒なぞのまだそのままに一年前のことを語り顔なのさえあった。
東京まで出て行って見ると、震災の名残《なごり》はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ。葦簾《よしず》で囲った休茶屋の横手には、人目をひく
前へ
次へ
全35ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング