買物に行く度に、秩父の山々を望んで来た。山を見ると、彼女は東京の方の空を恋しく思った。
新七から来た手紙には浦和まで母を迎えに行くとあって、ともかくもお三輪は伜の来るのを待つことにしていた。彼女は何を置いても、新七の言葉に従わねばならないように思った。それをしなければ気が済まないように思った。折角伜がそう言ってよこして、新しく開業した食堂を母に見せたいと言うのだから。
お三輪は震災後の東京を全く知らないでもない。一度、新七に連れられて焼跡を見に上京したこともある。小竹とした暖簾の掛っていたところは仮の板囲いに変って、ただ礎《いしずえ》ばかりがそこに残っていた。香、扇子、筆墨、陶器、いろいろな種類の紙、画帖、書籍などから、加工した宝石のようなものまで、すべて支那産の品物が取りそろえてあったあの店はもう無い。三代もかかって築きあげた一家の繁昌《はんじょう》もまことに夢の跡のようであった。その時はお三輪も胸が迫って来て、二度とこんな焼跡なぞを訪ねまいと思った。その足でお三輪は芝公園の休茶屋の方へも寄って来たが、あの食堂もまだ開業の支度最中であった。新七、お力夫婦の外に、広瀬さんという
前へ
次へ
全35ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング