すよ。そんな御心配はいらないんですよ。みんな内輪のものばかりですから」
とお力の方では言ったが、それを納めて貰わないことにはお三輪の気が済まなかった。盆暮の仕着せ、折々の心づけ――あの店のさかんな時分には、小竹の印絆纏《しるしばんてん》や手拭まで染めさせて、どれ程多勢の人を悦《よろこ》ばせたことか。都会の婦人に多い見栄《みえ》からでなしに、お三輪はくれられるだけくれて、この池の茶屋に使われている人達をも悦ばせたかった。
「まあ、そう言わずに皆に分けておくれ。年寄に恥をかかせるものじゃないよ。ほんのあたしの志だよ」
とお三輪はその紙の包をお力の手に握らせた。彼女はいくらもない小遣をあらかたそこへ出してしまった。
やがて新七も母を見送る支度をはじめた。お力は人のいない食堂の方にお三輪の席をつくって、出掛ける前の彼女のために、髪を直したり撫《な》でつけたりしてやった。お三輪はもう隠居らしく髪を切っていて、半分男に帰ったようでもあった。
「小伝馬町の富田さんでも、今度の震災ではお気の毒だねえ。あそこの家の子息《むすこ》さんも切通しで亡くなったってねえ。お力はあの子息さんを覚えているだろう
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