髪をなでつける人、なでつけて貰う人の間には、すべてが思い出の種でないものはなかった。お三輪のいう小伝馬町の富田さんとは、石町の御隠居さんの家から分れて出た針問屋にあたる。お三輪の母親が勤めたことのあるあの石町の古い店も疾《とっ》くの昔に無い。そこから分れた小伝馬町の店でも、孫の子息さんの代にはだんだんちいさくなって、家族も一人亡くなり、二人亡くなり、最後に残ったその子息さんまでも震災の当時には大火に追われ、本郷の切通し坂まで病躯を運んで行って、あの坂の中途で落命してしまった……
「お母さん、支度が出来たら出掛けましょう」
 と新七が母の側へ言いに来る頃は、お力もひどく別れを惜んだ。池の茶屋ではまた一日の活動が始まりかける頃であった。朝早く魚河岸の方へ買出しに行った広瀬さんも金太郎もまだ戻って見えなかったが、新鮮な魚類を載せた車だけは威勢よく先に帰って来て、丁度お三輪が新七と一緒に出掛けようとするところへ着いた。
「広瀬さんにもよろしく。金さんにもよろしく」
 と別れを告げて行くお三輪の後を追って、お力は一緒に歩いて来た。芝公園の中を抜けて電車の乗場のある赤羽橋の畔《たもと》までも
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