世が移り変ったとは思われなかった。
蓮池はすぐ眼にあった。僅《わず》かに二輪だけ花の紅く残った池の中には、青い蓮の実の季節を語り顔なのがあり、葉と葉は茂って、一面に重なり合って、そのいずれもが九月の生気を呼吸していた。お三輪はその藤棚の下の位置から、「池の茶屋」とした旗の出ている方を眺めながら、もう一度休茶屋の近くへ引き返して来た。
その時になって見ると、お三輪が浦和から胸に描いて来たように、落ちついた心持に帰れるような場所は、ちょっとそこいらに見当らなかった。どうして黒柿の長手の火鉢や、古い馴染《なじみ》の箪笥《たんす》はおろか、池の茶屋の料理場の片隅に皆の立ち働くところを眺めることさえ邪魔になるように思われて、ゆっくり腰の掛けられそうな椅子一つ彼女を待っていなかった。
休茶屋の近くに古い格子戸のはまった御堂もあった。京橋の誰それ、烏森の何の某《なにがし》、という風に、参詣した連中の残した御札がその御堂の周囲《まわり》にべたべたと貼《は》りつけてある。高い柱の上にも、正面の壁の上にも、それがある。思わずお三輪は旧い馴染の東京をそんなところに見つける気がして、雨にもまれ風にさらさ
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