れたようなその格子戸に取りすがって眺めた。
「あ、これはお閻魔《えんま》さまだ」
この考えが、古い都会の残った香《におい》でも嗅《か》ぐ思いを起させた。古い東京のものでありさえすれば、何でもお三輪にはなつかしかった。藍万《あいまん》とか、玉つむぎとか、そんな昔|流行《はや》った着物の小切れの残りを見てもなつかしかった。木造であったものが石造に変った震災前の日本橋ですら、彼女には日本橋のような気もしなかったくらいだ。矢張、江戸風な橋の欄干の上に青銅《からかね》の擬宝珠《ぎぼし》があり、古い魚河岸があり、桟橋があり、近くに鰹節《かつおぶし》問屋、蒲鉾《かまぼこ》屋などが軒を並べていて、九月はじめのことであって見れば秋鯖《あきさば》なぞをかついだ肴屋《さかなや》がそのごちゃごちゃとした町中を往ったり来たりしているようなところでなければ、ほんとうの日本橋のような気もしなかったのである。そして、そういう娘時代の記憶の残った東京がまだ変らずにあるようにも思われた。あの魚河岸ですら最早東京の真中にはなくて、広瀬さんはじめ池の茶屋の人達が月島の方へ毎朝の魚の買出しに出掛けるとは、お三輪には信じられも
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