《とらふ》のある鮎並《あいなめ》、口の大きく鱗《うろこ》の細《こまか》い鱸《すずき》なぞを眺《なが》めるさえめずらしく思った。庖丁をとぐ音、煮物揚物の用意をする音はお三輪の周囲《まわり》に起って、震災後らしい復興の気分がその料理場に漲《みなぎ》り溢《あふ》れた。
こうなると、何と言っても広瀬さんの天下だ。そこは新七と、広瀬さんと、お力夫婦の寄合世帯で、互いに力を持寄っての食堂で、誰が主人でもなければ、誰が使われるものでもなかった。唯、実力あるものが支配した。そういう広瀬さんも、以前小竹の家に身を寄せていた時分とは違い、今は友達同志として経営するこの食堂に遠慮は反《かえ》って無用とあって、つい忙しい時になると、
「オイ、君」
と新七を呼び捨てだ。新七はそれを聞いても、すこしも嫌《いや》な顔をしなかった。どこまでもこの友達の女房役として、共に事に当ろうとしていた。
昼近い頃には、ぽつぽつ食堂へ訪ねて来る客もあった。腰の低い新七は一々食堂の入口まで迎えに出て、客の帽子から杖までも自分で預かるくらいにした。そして客の註文を聞いたり、いろいろと取持ちをしたりする忙しい中で、ちょっとお三輪を
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