朝になって見ると、広瀬さんは早く魚河岸《うおがし》の方へ出掛けて行く。前の日に見えなかった料理方の人達も帰って来ていて、それぞれ一日の支度を始める。新七もじっとしていなかった。休茶屋の軒先には花やかな提灯《ちょうちん》などを掛け連ねさせ、食堂の旗を出す指図までして廻った。彼はまた、お三輪の見ている前で、食堂の内にある食卓の上までも拭《ふ》いた。
そこへお力が顔を出した。
「旦那さんはそんなことまでなさらなくてもようござんす。手はいくらもあります。旦那さんは帳場の前に腰掛けていて下さればいい方です」
とお力は言って、新七の手から布巾《ふきん》を奪い取るようにした。
魚河岸の方へ行った連中が帰って来てからは、料理場の光景も一層の賑《にぎや》かさを増した。料理方の人達はいずれも白い割烹着に手を通して威勢よく働き始めた。そこにはイキの好い魚を洗うものがある。ここには芋の皮をむき始めるものがある。広瀬さんは背広に長い護謨靴《ゴムぐつ》ばきでその間を歩き廻った。素人《しろうと》ながらに、近海物と、そうでない魚とを見分けることの出来るお三輪は、今|陸《おか》へ揚ったばかりのような黒く濃い斑紋
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