顔を見ると、
「今、御隠居さんからお話を伺ってるところです。そう言えば、あの震災の時は先生だっても、面白い服装《なり》をして私共へ尋ねて来て下すったじゃありませんか。ほら、太い青竹なぞを杖《つえ》について……」
「そこから、君、この食堂が生れて来たようなものだよ」
 と言って見せて広瀬さんも笑った。
「でも、御隠居さんが今度出て来て下すって、ほんとに私はうれしい」とお力は半分独りごとのように、「私のようなもののところへも、御恩返しをする日が来たような気もしますよ。何年となく私はこんな日の来るのを待っていたようなものですよ」
 その日はこんな話が尽きなかった。


 久しぶりでお三輪の出て来て見た東京は何となく勝手の違うようなところで、見るもの聞くものが彼女の心を落ちつかせなかった。ここに比べると、浦和の町の方は静かな田舎《いなか》という感じが深い。着いた晩は、お三輪もお力の延べてくれた床に入って、疲れた身体《からだ》を休めようとしたが、生憎《あいにく》と自動車や荷馬車の音が耳についてよくも眠られなかった。この公園に近い休茶屋の外には一晩中こんな車の音が絶えないのかとお三輪に思われた。

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