達の避難する場所にあてられた。その休茶屋には、以前お三輪のところに七年も奉公したことのあるお力が内儀《かみ》さんとしていて、漸《ようや》くのことでそこまで辿《たど》り着いた旧主人を迎えてくれた。こんな非常時の縁が、新七とお力夫妻とを結びつけ、震災後はその休茶屋に新しい食堂を設け、所謂《いわゆる》割烹《かっぽう》店でなしに好い料理を食わせるところを造り、協力でそれを経営するようになって行こうとは、お三輪としても全く思い設けない激しい生涯の変化であった。
「お前はどうしてそんなに泣くの」
とお三輪は自分の側へ来る子守娘に声を掛けて見た。
「去年のことでも思い出したのかい」
とまたお三輪が言うと子守娘はそれを聞いて、一層しくしく泣いた。この娘は、焼けない前から小竹の家に奉公していたもので、東京にある身内という身内は一人も大火後に生き残らなかった。全く独《ひと》りぼっちになってしまったような娘だ。お三輪について一緒に浦和まで落ちのびて来たものは、この不幸な子守娘だけであった。多勢使っていた店の奉公人もそれぞれ暇を取って、皆ちりぢりばらばらになってしまった。
お三輪は子守娘をつれて町へでも買物に行く度に、秩父の山々を望んで来た。山を見ると、彼女は東京の方の空を恋しく思った。
新七から来た手紙には浦和まで母を迎えに行くとあって、ともかくもお三輪は伜の来るのを待つことにしていた。彼女は何を置いても、新七の言葉に従わねばならないように思った。それをしなければ気が済まないように思った。折角伜がそう言ってよこして、新しく開業した食堂を母に見せたいと言うのだから。
お三輪は震災後の東京を全く知らないでもない。一度、新七に連れられて焼跡を見に上京したこともある。小竹とした暖簾の掛っていたところは仮の板囲いに変って、ただ礎《いしずえ》ばかりがそこに残っていた。香、扇子、筆墨、陶器、いろいろな種類の紙、画帖、書籍などから、加工した宝石のようなものまで、すべて支那産の品物が取りそろえてあったあの店はもう無い。三代もかかって築きあげた一家の繁昌《はんじょう》もまことに夢の跡のようであった。その時はお三輪も胸が迫って来て、二度とこんな焼跡なぞを訪ねまいと思った。その足でお三輪は芝公園の休茶屋の方へも寄って来たが、あの食堂もまだ開業の支度最中であった。新七、お力夫婦の外に、広瀬さんという
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