ちつく先を尋ね惑い、一年のうちに七度も引越して歩いて、その頃になってもまだ住居の定まらない人達すらあった。
 お三輪は思い出したように、仮の仏壇のところへ線香をあげに行った。お三輪が両親の古い位牌《いはい》すら焼いてしまって、仏壇らしい仏壇もない。何もかもまだ仮の住居の光景だ。部屋の内には、ある懇意なところから震災見舞にと贈られた屏風《びょうぶ》などを立て廻して、僅《わず》かにそこいらを取り繕ってある。長いことお三輪が大切にしていた黒柿《くろがき》の長手《ながて》の火鉢も、父の形見として残っていた古い箪笥《たんす》もない。お三輪はその火鉢を前に、その箪笥を背後《うしろ》にして、どうかしてもう一度以前のような落ちついた心持に帰って見たいと願っていた。
 このお三輪が震災に逢った頃は最早六十の上を三つも四つも越していた。父は浦和から出て、東京京橋の目貫《めぬき》な町中に小竹の店を打ち建てた人で、お三輪はその家附きの娘、彼女の旦那は婿養子にあたっていた。この二人の間に生れた一人|子息《むすこ》が今の新七だ。お三輪が小竹の隠居と言われる時分には、旦那は疾《とっ》くにこの世にいない人で、店も守る一方であったが、それでも商法はかなり手広くやり、先代が始めた上海《シャンハイ》の商人との取引は新七の代までずっと続いていた。
 お三輪は濃い都会の空気の中に、事もなく暮していた日のことをまだ忘れかねている。広い板敷の台所があって、店のものに食わせる昼飯の支度《したく》がしかけてある。番頭や小僧の茶碗《ちゃわん》、箸《はし》なぞも食卓の上に既に置き並べてある。そこは小竹とした暖簾《のれん》のかかっていた店の奥だ。お三輪は女中を相手に、その台所で働いていた。そこへ地震だ。やがて火だ。当時を想うと、新七はじめ、店の奉公人でも、近所の人達でも、自分等の町の界隈《かいわい》が焼けようなぞと思うものは一人もなかったのである。あの時ほどお三輪も自分の弱いことを知ったためしはなかった。新七でも側にいなかったら、どうなったかと思われるくらいだ。彼女はお富達と手をつなぎ合せ、一旦日比谷公園まで逃れようとしたが、火を見ると足も前へ進まなかった。眼は眩《くら》み、年老いたからだは震えた。そしてあの暗い樹のかげで一夜を明そうとした頃は、小竹の店も焼け落ちてしまった。芝公園の方にある休茶屋が、ともかくも一時この人
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