人も加わって、四人で食器諸道具の相談に余念もなかった頃だ。この広瀬さんは一時は小竹の家に身を寄せていたこともあり、お力なぞもこの人に就《つ》いて料理というものに眼が開いたくらいだから、そういう人が心棒になっての食堂なら、あるいは成り立ちもするかとお三輪にも思われた。
「それにしても、小竹の店はどうなるだろう。新七はどういう気でいるんだろう」
そこまで考えて行くと、お三輪は茫然《ぼうぜん》としてしまった。
単調な機場《はたば》の機の音は毎日のようにお三輪の針仕事する部屋まで聞えて来ていた。お三輪はその音を聞きながら、東京の方にいる新七のために着物を縫った。亡くなった母のことが頻《しき》りに恋しく思い出されるのも、そういう時だ。お三輪はあの母の晩年に言ったこと為《し》たことなぞをいろいろと思い出すようになったほど、自分も同じように年をとったかと思った。母はなかなかきかない気象の婦人であったから、存命中は婿養子との折合も好くなく、とかく家庭に風波の絶間もなかったが、それだけ一方にはしゃんとしたところを持っていた。お三輪が娘時分に朝寝の枕もとへ来て、一声で床を離れなかったら、さっさと蒲団《ふとん》を片付けてしまわれるほど厳《きび》しい育て方をされたのも母だ。そういう母が同じ浦和生れの父を助けて小竹の店を持つ前に、しばらく日本橋|石町《こくちょう》の御隠居さんの家に勤めていた頃は、朝も暗いうちに起き、夜が明けてから髪なぞを結ったためしは殆《ほと》んどなかったという。そして御隠居さんの寝間の障子を細目にあけ、敷居のところに手をついて、毎朝の御機嫌《ごきげん》を伺ったものだという。年若い頃のお三輪に、三年の茶の道と、三味線や踊りの芸を仕込んでくれたのも母だ。財産も、店の品物も、着物も、道具も――一切のものを失った今となって見ると、年老いたお三輪が自分の心を支える唯一つの柱と頼むものは、あの生みの母より外になかった。
生きている人にでも相談するように、お三輪はこの母の前に自分を持って行って見た。母は年を取れば取るほど、ますます疑い深くなって行ったような人であった。仮りに母がこの世に生きながらえていて、一回の震災の打撃に小竹の店の再興も覚束《おぼつか》ないと聞いたなら、あの疑い深い人はまた何を言い出したかも知れない。三代と続く商家も少いとよく言われるように、今度の震災を待つまで
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