もした。小諸は東西の風をうけるから、南北に向って「ウネ」を造ると、日あたりも好し、又風の為に穂の擦《す》れ落ちる憂《うれい》が無い、自分等は絶えずそんなことを工夫しているとも話した。
「しかし、上州の人に見せたものなら、こんなことでよく麦が取れるッて、消魂《たまげ》られます」
 こう言って、隠居は笑った。
「この阿爺《おとっ》さんも、ちったア御百姓の御話が出来ますから、御二人で御話しなすって下さい」
 と辰さんは言い置いて、麦藁《むぎわら》帽の古いのを冠りながら復た畠へ出た。辰さんの弟も股引《ももひき》を膝《ひざ》までまくし上げ、素足を顕して、兄と一緒に土を起し始めた。二人は腰に差した鎌を取出して、時々鍬に附着する土を掻取《かきと》って、それから復た腰を曲《こご》めて錯々《せっせ》とやった。
「浅間が焼けますナ」
 と皆な言い合った。
 私は掘起される土の香を嗅《か》ぎ、弱った虫の声を聞きながら、隠居から身上話を聞かされた。この人は六十三歳に成って、まだ耕作を休まずにいるという。十四の時から灸《きゅう》、占《うらない》の道楽を覚え、三十時代には十年も人力車《くるま》を引いて、自分が小諸の車夫の初だということ、それから同居する夫婦の噂《うわさ》なぞもして、鉄道に親を引つぶされてからその男も次第に、零落したことを話した。
「お百姓なぞは、能の無いものの為《す》るこんです……」
 と隠居は自ら嘲《あざけ》るように言った。
 その時、髪の白い、背の高い、勇健な体格を具えた老農夫が、同じ年|格好《かっこう》な仲間と並んで、いずれも土の喰《く》い入った大きな手に鍬を携えながら、私達の側を挨拶して通った。肥《こや》し桶《おけ》を肩に掛けて、威勢よく向うの畠道を急ぐ壮年《わかもの》も有った。

     収穫

 ある日、復た私は光岳寺の横手を通り抜けて、小諸の東側にあたる岡の上に行って見た。
 午後の四時頃だった。私が出た岡の上は可成|眺望《ちょうぼう》の好いところで、大きな波濤《なみ》のような傾斜の下の方に小諸町の一部が瞰下《みおろ》される位置にある。私の周囲には、既に刈乾した田だの未だ刈取らない田だのが連なり続いて、その中である二家族のみが残って収穫《とりいれ》を急いでいた。
 雪の来ない中に早くと、耕作に従事する人達の何かにつけて心忙しさが思われる。私の眼前《めのまえ》には胡麻塩《ごましお》頭の父と十四五ばかりに成る子とが互に長い槌《つち》を振上げて籾《もみ》を打った。その音がトントンと地に響いて、白い土埃《つちほこり》が立ち上った。母は手拭を冠り、手甲《てっこう》を着けて、稲の穂をこいては前にある箕《み》の中へ落していた。その傍《かたわら》には、父子《おやこ》の叩いた籾を篩《ふるい》にすくい入れて、腰を曲めながら働いている、黒い日に焼けた顔付の女もあった。それから赤い襷掛《たすきがけ》に紺足袋穿という風俗《なり》で、籾の入った箕を頭の上に載せ、風に向ってすこしずつ振い落すと、その度に粃《しいな》と塵埃《ほこり》との混り合った黄な煙を送る女もあった。
 日が短いから、皆な話もしないで、塵埃《ほこり》だらけに成って働いた。岡の向うには、稲田や桑畠を隔てて、夫婦して笠を冠って働いているのがある。殊にその女房が箕を高く差揚げ風に立てているのが見える。風は身に染みて、冷々《ひやひや》として来た。私の眼前《めのまえ》に働いていた男の子は稲村に預けて置いた袖なし半天を着た。母も上着《うわっぱり》の塵埃《ほこり》を払って着た。何となく私も身体がゾクゾクして来たから、尻端折《しりはしょり》を下して、着物の上から自分の膝を摩擦しながら、皆なの為ることを見ていた。
 鍬を肩に掛けて、岡づたいに家の方へ帰って行く頬冠りの男もあった。鎌を二|挺《ちょう》持ち、乳呑児を背中に乗せて、「おつかれ」と言いつつ通過ぎる女もあった。
 眼前《めのまえ》の父子《おやこ》が打つ槌の音はトントンと忙しく成った。
「フン」、「ヨウ」の掛声も幽《かす》かに泄《も》れて来た。そのうちに、父はへなへなした俵を取出した。腰を延ばして塵埃の中を眺める女もあった。田の中には黄な籾の山を成した。
 その時は最早暮色が薄く迫った。小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄《ゆうもや》が立ち籠《こ》めた。向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
 私はもうすこし辛抱して、と思って見ていると、父の農夫が籾をつめた俵に縄を掛けて、それを負《しょ》いながら家を指して運んで行く様子だ。今は三人の女が主に成って働いた。岡辺も暮れかかって来て、野面《のら》に居て働くものも無くなる。向うの田の中に居る夫婦者の姿もよく見えない程に成った。
 光岳寺の暮鐘が響き渡った。浅間も次第に暮れ、紫色に夕映《ゆうばえ》した山々は何時しか暗い鉛色と成って、唯《ただ》白い煙のみが暗紫色の空に望まれた。急に野面《のら》がパッと明るく成ったかと思うと、復た響き渡る鐘の音を聞いた。私の側には、青々とした菜を負《しょ》って帰って行く子供もあり、男とも女とも後姿の分らないようなのが足速《あしばや》に岡の道を下って行くもあり、そうかと思うと、上着《うわっぱり》のまま細帯も締めないで、まるで帯とけひろげのように見える荒くれた女が野獣《けもの》のように走って行くのもあった。
 南の空には青光りのある星一つあらわれた。すこし離れて、また一つあらわれた。この二つの星の姿が紫色な暮の空にちらちらと光りを見せた。西の空はと見ると、山の端《は》は黄色に光り、急に焦茶色と変り、沈んだ日の反射も最後の輝きを野面《のら》に投げた。働いている三人の女の頬冠り、曲《こご》めた腰、皆な一時に光った。男の子の鼻の先まで光った。最早稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜《もり》のこんもりとした欅《けやき》の梢《こずえ》も暗い茶褐色に隠れて了《しま》った。
 町の彼方《かなた》にはチラチラ燈火《あかり》が点《つ》き始めた。岡つづきの山の裾にも点いた。
 父の農夫は引返して来て復た一俵|負《しょ》って行った。三人の女や男の子は急ぎ働いた。
「暗くなって、いけねえナア」と母の子をいたわる声がした。
「箒《ほうき》探しな――箒――」
 と復た母に言われて、子はうろうろと田の中を探し歩いた。
 やがて母は箒で籾を掃き寄せ、筵《むしろ》を揚げて取り集めなどする。女達が是方《こっち》を向いた顔もハッキリとは分らないほどで、冠っている手拭の色と顔とが同じほどの暗さに見えた。
 向うの田に居る夫婦者も、まだ働くと見えて、灰色な稲田の中に暗く動くさまが、それとなく分る。
 汽笛が寂しく響いて聞えた。風は遽然《にわかに》私の身にしみて来た。
「待ちろ待ちろ」
 母の声がする。男の子はその側で、姉らしい女と共に籾を打った。彼方《かなた》の岡の道を帰る人も暗く見えた。「おつかれでごわす」と挨拶そこそこに急いで通過ぎるものもあった。そのうちに、三人の女の働くさまもよくは見えない位に成って、冠った手拭のみが仄《ほの》かに白く残った。振り上ぐる槌までも暗かった。
「藁をまつめろ」
 という声もその中で聞える。
 私がこの岡を離れようとした頃、三人の女はまだ残って働いていた。私が振返って彼等を見た時は、暗い影の動くとしか見えなかった。全く暮れ果てた。

     巡礼の歌

 乳呑児《ちのみご》を負《おぶ》った女の巡礼が私の家の門《かど》に立った。
 寒空には初冬《はつふゆ》らしい雲が望まれた。一目見たばかりで、皆な氷だということが思われる。氷線の群合とも言いたい。白い、冷い、透明な尖端《せんたん》は針のようだ。この雲が出る頃に成ると、一日は一日より寒気を増して行く。
 こうして山の上に来ている自分等のことを思うと、灰色の脚絆《きゃはん》に古足袋を穿《は》いた、旅窶《たびやつ》れのした女の乞食《こじき》姿にも、心を引かれる。巡礼は鈴を振って、哀れげな声で御詠歌を歌った。私は家のものと一緒に、その女らしい調子を聞いた後で、五厘銅貨一つ握らせながら、「お前さんは何処ですネ」と尋ねた。
「伊勢でござります」
「随分遠方だネ」
「わしらの方は皆なこうして流しますでござります」
「何処《どっち》の方から来たんだネ」
「越後《えちご》路から長野の方へ出まして、諸方《ほうぼう》を廻って参りました。これから寒くなりますで、暖い方へ参りますでござりますわい」
 私は家のものに吩咐《いいつ》けて、この女に柿をくれた。女はそれを風呂敷包にして、家のものにまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
 夏の頃から見ると、日は余程南よりに沈むように成った。吾家の門に出て初冬の落日を望む度に、私はあの「浮雲似[#二]故丘[#一]」という古い詩の句を思出す。近くにある枯々な樹木の梢は、遠い蓼科《たでしな》の山々よりも高いところに見える。近所の家々の屋根の間からそれを眺めると丁度日は森の中に沈んで行くように見える。
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   その八


     一ぜんめし

 私は外出した序《ついで》に時々立寄って焚火《たきび》にあてて貰《もら》う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処《おんやすみどころ》、揚羽屋《あげばや》とした看板の出してあるのがそれだ。
 私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子《でし》を相手にして、石菖蒲《せきしょうぶ》、万年青《おもと》などの青い葉に眼を楽ませながら錯々《せっせ》と着物を造《こしら》える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹《ようかん》を店頭《みせさき》に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網《とあみ》をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者《えきしゃ》が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾《こんのれん》を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩《あんま》を渡世にする頭を円《まる》めた盲人《めくら》が居る。駒鳥《こまどり》だの瑠璃《るり》だのその他小鳥が籠《かご》の中で囀《さえず》っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
 揚羽屋では豆腐を造るから、服装《なりふり》に関わず働く内儀《かみ》さんがよく荷を担《かつ》いで、襦袢《じゅばん》の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹《とお》る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直《すぐ》に分る。自分の家でもこの女から油揚《あぶらあげ》だの雁《がん》もどきだのを買う。近頃は子息《むすこ》も大きく成って、母親《おっか》さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴《やっこ》でもトントンとやるように成った。
 揚羽屋には、うどんもある。尤《もっと》も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺《めん》類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐《ばんさん》に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦《そば》はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走《ちそう》に成っている。それから、「お煮掛《にかけ》」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋《おおなべ》のかけてある炉辺《ろばた》に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱《あたたかさ》を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何《いかが》でごわす」などと言って、内儀さんが大丼《おおどんぶり》に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供|相撲《ずもう》に弓を取った自慢話なぞを始める。
 そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤《すす》けた壁も、汚《よご》れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。
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