千曲川のスケッチ
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)樹《しげる》さん
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(例)今|綴《まと》める
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(例)浮雲似[#二]故丘[#一]
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序
敬愛する吉村さん――樹《しげる》さん――私は今、序にかえて君に宛《あ》てた一文をこの書のはじめに記《しる》すにつけても、矢張《やっぱり》呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸《ようや》く今|纏《まと》めることが出来た。
樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托《たく》して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋|久松町《ひさまつちょう》の小学校へ通われる頃は、私は白金《しろかね》の明治学院へ通った。君と私とは殆《ほと》んど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸《こもろ》で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学を卒《お》えようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君|独《ひと》りで来られた。この書の中にある小諸|城址《じょうし》の附近、中棚《なかだな》温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地《こころもち》がする。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
これは私が都会の空気の中から脱け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々《いろいろ》なことを学んだ。田舎《いなか》教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択《えら》ぶように成った。この書の主《おも》なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。
樹さん、君のお父さんも最早《もう》居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川《ちくまがわ》の川上から川下までを生々《いきいき》と眼の前に見ることが出来る。あの浅間の麓《ふもと》の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅《か》ぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。このスケッチの中で知友|神津猛《こうづたけし》君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りで著《あらわ》した。寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。
大正元年 冬
[#地から1字上げ]藤村
[#改ページ]
その一
学生の家
地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧《みまき》ヶ原《はら》の方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分|蕨《わらび》を採った。それから鴇窪《ときくぼ》という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
私は今、小諸の城址《しろあと》に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜も李《すもも》も殆《ほと》んど同時に開く。城址の懐古園《かいこえん》には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時《いちどき》にすべての花を浚《さら》って行って了《しま》う。私達の教室は八重桜の樹で囲繞《いにょう》されていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。殊《こと》に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早《もう》すっかり初夏の光景に変って了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋《うずも》れていた。
私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原《ひらはら》、小原《こはら》、山浦、大久保、西原、滋野《しげの》、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。こういう学生は多く農家の青年だ。学校の日課が済むと、彼等は各自《めいめい》の家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川《ちくまがわ》の岸に随《つ》いて、蛙《かわず》の声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡《ごぼう》、人参《にんじん》などの好い野菜を出す土地だ。滋野は北佐久《きたさく》の領分でなく、小県《ちいさがた》の傾斜にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。
ここでは男女《なんにょ》が烈《はげ》しく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫《とりいれ》休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙《いそが》しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこには生々とした樹蔭《こかげ》が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠《はたけ》の間の平かな道も好きだ。
私は盛んな青麦の香を嗅《か》ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧《お》しつけられるような心持《こころもち》に成る。可怖《おそろ》しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成《かなり》大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃《いんぎん》な家族の人達が私の心を惹《ひ》いた。
君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側《わき》から直《じか》に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚《ぶどうだな》などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛《ちちうし》が飼われている。
Sの兄は大きなバケツを提《さ》げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲《かが》めて、新鮮な牛乳を罎詰《びんづめ》にする仕度《したく》をした。暫時《しばらく》、私は立って眺《なが》めていた。
やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々《いろいろ》な話を聞いた。牛の性質によって温順《おとな》しく乳を搾《しぼ》らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着《おちつ》いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西《にし》の入《いり》の牧場《まきば》なぞが設けてあることを聞いた。
晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。
鉄砲虫
この山の上で、私はよく光沢《つやけ》の無い茶色な髪の娘に逢う。どうかすると、灰色に近いものもある。草葺《くさぶき》の小屋の前や、桑畠《くわばたけ》の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
学校の小使が私にこんなことを言った。
烏帽子山麓《えぼしさんろく》の牧場
水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれていたが、M君は沢山信州の風景を描いて、一年ばかりで東京の方へ帰って行った。今ではB君がその後をうけて生徒に画学を教えている。B君は製作の余暇に、毎週根津村から小諸まで通って来る。
土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県《ちいさがた》の傾斜を上った。
根津村には私達の学校を卒業したOという青年が居る。Oは兵学校の試験を受けたいと言っているが、最早《もう》一人前の農夫として恥しからぬ位だ。私はその家へも寄って、Oの母や姉に逢った。Oの母は肥満した、大きな体格の婦人で、赤い艶々《つやつや》とした頬《ほお》の色なぞが素樸《そぼく》な快感を与える。一体千曲川の沿岸では女がよく働く、随《したが》って気象も強い。恐らく、これは都会の婦人ばかり見慣れた君なぞの想像もつかないことだろう。私は又、この土地で、野蛮な感じのする女に遭遇《であ》うこともある。Oの母にはそんな荒々しさが無い。何しろこの婦人は驚くべき強健な体格だ。Oの姉も労働に慣れた女らしい手を有《も》っていた。
私はB君や、B君の隣家《となり》の主人に誘われて、根津村を見て廻った。隣家の主人はB君が小学校時代からの友達であるという。パノラマのような風光は、この大傾斜から擅《ほしいまま》に望むことが出来た。遠く谷底の方に、千曲川の流れて行くのも見えた。
私達は村はずれの田圃道《たんぼみち》を通って、ドロ柳の若葉のかげへ出た。谷川には鬼芹《おにぜり》などの毒草が茂っていた。小山の裾《すそ》を選んで、三人とも草の上に足を投出した。そこでB君の友達は提《さ》げて来た焼酎《しょうちゅう》を取出した。この草の上の酒盛の前を、時々若い女の連《つれ》が通った。草刈に行く人達だ。
B君の友達は思出したように、
「君とここで鉄砲打ちに来て、半日飲んでいたっけナ」
と言うと、B君も同じように洋行以前のことを思出したらしい調子で、
「もう五年前だ――」
と答えた。B君は写生帳を取出して、灰色なドロ柳の幹、風に動くそのやわらかい若葉などを写し写し話した。一寸《ちょっと》散歩に出るにも、この画家は写生帳を離さなかった。
翌日は、私はB君と二人ぎりで、烏帽子ヶ岳の麓《ふもと》を指して出掛けた。私が牧場《まきば》のことを尋ねたら、B君も写生かたがた一緒に行こうと言出したので、到頭私は一晩厄
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