介に成った。尤《もっと》も、この村から牧場のあるところへは、更に一里半ばかり上らなければ成らない。案内なしに、私などの行かれる場処では無かった。
夏山――山鶺鴒《やませきれい》――こういう言葉を聞いただけでも、君は私達の進んで行く山道を想像するだろう。「のっぺい」と称する土は乾いていて灰のよう。それを踏んで雑木林の間にある一条《ひとすじ》の細道を分けて行くと、黄勝なすずしい若葉のかげで、私達は旅の商人に逢った。
更に山深く進んだ。山鳩なぞが啼《な》いていた。B君は歩きながら飛騨《ひだ》の旅の話を始めて、十一という鳥を聞いた時の淋《さび》しかったことを言出した。「十一……十一……十一……」とB君は段々声を細くして、谷を渡って行く鳥の啼声を真似《まね》て聞かせた。そのうちに、私達はある岡の上へ出て来た。
君、白い鈴のように垂下った可憐《かれん》な草花の一面に咲いた初夏の光に満ちた岡の上を想像したまえ。私達は、あの香気《かおり》の高い谷の百合《ゆり》がこんなに生《は》えている場所があろうとは思いもよらなかった。B君は西洋でこの花のことを聞いて来て、北海道とか浅間山脈とかにあるとは知っていたが、なにしろあまり沢山あるので終《しまい》には採る気もなかった。二人とも足を投出して草の中に寝転《ねころ》んだ。まるで花の臥床《しとね》だ。谷の百合は一名を君影草《きみかげそう》とも言って、「幸福の帰来」を意味するなどと、花好きなB君が話した。
話の面白い美術家と一緒で、牧場へ行き着くまで、私は倦《う》むことを知らなかった。岡の上には到るところに躑躅《つつじ》の花が咲いていた。この花は牛が食わない為に、それでこう繁茂しているという。
一周すれば二里あまりもあるという広々とした高原の一部が私達の眼にあった。牛の群が見える。何と思ったか、私達の方を眼掛《めが》けて突進してくる牛もある。こうして放し飼にしてある牛の群の側を通るのは、慣れない私には気味悪く思われた。私達は牧夫の住んでいる方へと急いだ。
番小屋は谷を下りたところにあった。そこへ行く前に沢の流れに飲んでいる小牛、蕨《わらび》を採っている子供などに逢った。牛が来て戸や障子を突き破るとかで、小屋の周囲《まわり》には柵《さく》が作ってある。年をとった牧夫が住んでいた。僅《わず》かばかりの痩《や》せた畑もこの老爺《ろうや》が作るらしかった。破れた屋根の下で、牧夫は私達の為に湯を沸かしたり、茶を入れたりしてくれた。
壁には鋸《のこぎり》、鉈《なた》、鎌《かま》の類を入れた「山猫」というものが掛けてあった。こんな山の中までよく訪ねて来てくれたという顔付で、牧夫は私達に牛飼の経験などを語り、この牧場の管理人から月に十円の手宛《てあて》を貰《もら》っていることや、自分は他の牧場からこの西《にし》の入《いり》の沢へ移って来たものであることなどを話した。牛は角がかゆい、それでこすりつけるようにして、物を破壊《こわ》して困るとか言った。今は草も短く、少いから、草を食い食い進むという話もあった。
牧夫は一寸考えて、見えなくなった牛のことを言出した。あの山間《やまあい》の深い沢を、山の湯の方へ行ったかと思う、とも言った。
「ナニ、あの沢は裾まで下りるなんてものじゃねえ。柳の葉でもこいて食ってら」
こう復《ま》た考え直したように、その牛のことを言った。
間もなく私達は牧夫に伴われて、この番小屋を出た。牧夫は、多くの牛が待っているという顔付で、手に塩を提げて行った。途次《みちみち》私達に向って、「この牧場は芝草ですから、牛の為に好いです」とか「今は木が低いから、夏はいきれていけません」とか、種々《いろいろ》な事を言って聞かせた。
ここへ来て見ると、人と牛との生涯が殆《ほと》んど混り合っているかのようである。この老爺は、牛が塩を嘗《な》めて清水を飲みさえすれば、病も癒《い》えるということまで知悉《しりつく》していた。月経期の牝牛《めうし》の鳴声まで聞き分ける耳を持っていた。
アケビの花の紫色に咲いている谷を越して、復た私達は牛の群の見えるところへ出た。牧夫が近づいて塩を与えると、黒い小牛が先ず耳を振りながらやって来た。つづいて、額の広い、目付の愛らしい赤牛や、首の長い斑《ぶち》なぞがぞろぞろやって来て、「御馳走《ごちそう》」と言わないばかりに頭を振ったり尻尾《しっぽ》を振ったりしながら、塩の方へ近づいた。牧夫は私達に、牛もここへ来たばかりには、家を懐《なつか》しがるが、二日も経てば慣れて、強い牛は強い牛と集り、弱い牛は弱い牛と組を立てるなどと話した。向うの傾斜の方には、臥《ね》たり起きたりして遊んでいる牛の群も見える……
この牧場では月々五十銭ずつで諸方《ほうぼう》の持主から牝牛を預っている。そういう牝牛が今五十頭ばかり居る。種牛は一頭置いてある。牧夫が勤めの主なるものは、牛の繁殖を監督することであった。礼を言って、私達はこの番人に別れた。
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その二
青麦の熟する時
学校の小使は面白い男で、私に種々《いろいろ》な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬《ほお》の紅い彼の妻が子供を背負《おぶ》ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣《や》る。校長の家では毎年|可成《かなり》な農家ほどに野菜を作った。燕麦《からすむぎ》なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川《ちくまがわ》の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一|隅《ぐう》を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠《くわばたけ》、竹藪《たけやぶ》などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
粗末ではあるが眺望《ちょうぼう》の好い、その窓の一つに倚《よ》りながら、私は小使から六月の豆蒔《まめまき》の労苦を聞いた。地を鋤《す》くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋《わらじ》を穿《は》いて漸《ようや》くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠《こぬか》一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒《ま》くという。麦は矢張小作の年貢《ねんぐ》の中に入って、夏の豆、蕎麦《そば》なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微《かすか》な西風が私達の顔を撫《な》でて、窓の外を通る時候に成って来た。
少年の群
学校の帰路《かえりみち》に、鉄道の踏切を越えた石垣の下のところで、私は少年の群に逢った。色の黒い、二本棒の下った、藁草履《わらぞうり》を穿《は》いた子供等で、中には素足のまま土を踏んでいるのもある。「野郎」、「この野郎」、と互に顔を引掻《ひっか》きながら、相撲《すもう》を取って遊んでいた。
何処《どこ》の子供も一種の俳優《やくしゃ》だ。私という見物がそこに立って眺《なが》めると、彼等は一層調子づいた。これ見よがしに危い石垣の上へ登るのもあれば、「怪我しるぞ」と下に居て呼ぶのもある。その中で、体躯《なり》の小な子供に何歳《いくつ》に成るかと聞いてみた。
「おら、五歳《いつつ》」とその子供が答えた。
水車小屋の向うの方で、他の少年の群らしい声がした。そこに遊んでいた子供の中には、それを聞きつけて、急に馳出《かけだ》すのもあった。
「来ねえか、この野郎――ホラ、手を引かれろ」
とさすがに兄らしいのが、年下《としした》の子供の手を助けるように引いた。
「やい、米でも食《くら》え」
こんなことを言って、いきなり其処《そこ》にある草を毟《むし》って、朋輩《ほうばい》の口の中へ捻込《ねじこ》むのもあった。
すると、片方《かたっぽう》も黙ってはいない。覚えておれと言わないばかりに、「この野郎」と叫んだ。
「畜生!」一方は軽蔑《けいべつ》した調子で。
「ナニ? この野郎」片方は石を拾って投げつける。
「いやだいやだ」
と笑いながら逃げて行く子供を、片方は棒を持って追馳《おっか》けた。乳呑児《ちのみご》を背負《おぶ》ったまま、その後を追って行くのもあった。
君、こういう光景《ありさま》を私は学校の往還《ゆきかえり》に毎日のように目撃する。どうかすると、大人が子供をめがけて、石を振上げて、「野郎――殺してくれるぞ」などと戯れるのを見ることもある。これが、君、大人と子供の間に極く無邪気に、笑いながら交換《とりかわ》される言葉である。
東京の下町の空気の中に成長した君なぞに、この光景《ありさま》を見せたら、何と言うだろう。野蛮に相違ない。しかし、君、その野蛮は、疲れた旅人の官能に活気と刺戟《しげき》とを与えるような性質のものだ。
麦畠
青い野面《のら》には蒸すような光が満ちている。彼方此方《あちこち》の畠|側《わき》にある樹木も活々《いきいき》とした新葉を着けている。雲雀《ひばり》、雀《すずめ》の鳴声に混って、鋭いヨシキリの声も聞える。
火山の麓にある大傾斜を耕して作ったこの辺の田畠《たはた》はすべて石垣によって支えられる。その石垣は今は雑草の葉で飾られる時である。石垣と共に多いのは、柿の樹だ。黄勝《きがち》な、透明な、柿の若葉のかげを通るのも心地が好い。
小諸はこの傾斜に添うて、北国《ほっこく》街道の両側に細長く発達した町だ。本町《ほんまち》、荒町《あらまち》は光岳寺を境にして左右に曲折した、主《おも》なる商家のあるところだが、その両端に市町《いちまち》、与良町《よらまち》が続いている。私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町《あいおいちょう》の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町《ふくろまち》を通りぬけて、田圃側《たんぼわき》の細道へ出た。そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が町の全景の一部を望むように見られる。白壁、土壁は青葉に埋れていた。
田圃側の草の上には、土だらけの足を投出して、あおのけさまに寝ている働き労《つか》れたらしい男があった。青麦の穂は黄緑《こうりょく》に熟しかけていて、大根の花の白く咲き乱れたのも見える。私は石垣や草土手の間を通って石塊《いしころ》の多い細道を歩いて行った。そのうちに与良町に近い麦畠の中へ出て来た。
若い鷹《たか》は私の頭の上に舞っていた。私はある草の生えた場所を選んで、土のにおいなどを嗅《か》ぎながら、そこに寝そべった。水蒸気を含んだ風が吹いて来ると、麦の穂と穂が擦《す》れ合って、私語《ささや》くような音をさせる。その間には、畠に出て「サク」を切っている百姓の鍬《くわ》の音もする……耳を澄ますと、谷底の方へ落ちて行く細い水の響も伝わって来る。その響の中に、私は流れる砂を想像してみた。しばらく私はその音を聞いていた。しかし、私は野鼠のように、独《ひと》りでそう長く草の中には居られない。乳色に曇りながら光る空なぞは、私の心を疲れさせた。自然は、私に取っては、どうしても長く熟視《みつ》めていられないようなものだ……どうかすると逃げて帰りたく成るようなものだ。
で、復《ま》た私は起き上った。微温《なまぬる》い風が麦畠を渡って来ると、私の髪の毛は額へ掩《おお》い冠《かぶ》さるように成った。復た帽子を冠って、歩き廻った。
畠の間には遊んでいる子供もあった。手甲
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