来る。空は晴れて白い雲の見えるような日であったが、裏の流のところに立つ柳なぞは烈風に吹かれて髪を振うように見えた。枯々とした桑畠に茶褐色《ちゃかっしょく》に残った霜葉なぞも左右に吹き靡《なび》いていた。
 その日、私は学校の往《いき》と還《かえり》とに停車場前の通を横ぎって、真綿帽子やフランネルの布で頭を包んだ男だの、手拭《てぬぐい》を冠《かぶ》って両手を袖《そで》に隠した女だのの行き過ぎるのに遭《あ》った。往来《ゆきき》の人々は、いずれも鼻汁《はな》をすすったり、眼側《まぶち》を紅くしたり、あるいは涙を流したりして、顔色は白ッぽく、頬《ほお》、耳、鼻の先だけは赤く成って、身を縮め、頭をかがめて、寒そうに歩いていた。風を背後《うしろ》にした人は飛ぶようで、風に向って行く人は又、力を出して物を押すように見えた。
 土も、岩も、人の皮膚の色も、私の眼には灰色に見えた。日光そのものが黄ばんだ灰色だ。その日の木枯が野山を吹きまくる光景《さま》は凄《すさ》まじく、烈しく、又勇ましくもあった。樹木という樹木の枝は撓《たわ》み、幹も動揺し、柳、竹の類は草のように靡いた。柿の実で梢《こずえ》に残ったのは吹き落された。梅、李《すもも》、桜、欅《けやき》、銀杏《いちょう》なぞの霜葉は、その一日で悉《ことごと》く落ちた。そして、そこここに聚《たま》った落葉が風に吹かれては舞い揚った。急に山々の景色は淋《さび》しく、明るく成った。

     炬燵話《こたつばなし》

 私が君に山上の冬を待受けることの奈様《いか》に恐るべきかを話した。しかしその長い寒い冬の季節が又、信濃《しなの》に於《お》ける最も趣の多い、最も楽しい時であることをも告げなければ成らぬ。
 それには先ず自分の身体のことを話そう。そうだ。この山国へ移り住んだ当時、土地慣れない私は風邪《かぜ》を引き易《やす》くて困った。こんなことで凌《しの》いで行かれるかと思う位だった。実際、人間の器官は生活に必要な程度に応じて発達すると言われるが、丁度私の身体にもそれに適したことが起って来た。次第に私は烈しい気候の刺激に抵抗し得るように成った。東京に居た頃から見ると、私は自分の皮膚が殊に丈夫に成ったことを感ずる。私の肺は極く冷い山の空気を呼吸するに堪えられる。のみならず、私は春先まで枯葉の落ちないあの椚林《くぬぎばやし》を鳴らす寒い風の音を聞いたり、真白に霜の来た葱畠《ねぎばたけ》を眺《なが》めたりして、屋《うち》の外を歩き廻る度に、こういう地方に住むものでなければ知らないような、一種刺すような快感を覚えるように成った。
 草木までも、ここに成長するものは、柔い気候の中にあるものとは違って見える。多くの常磐樹《ときわぎ》の緑がここでは重く黒ずんで見えるのも、自然の消息を語っている。試みに君が武蔵野《むさしの》辺の緑を見た眼で、ここの礫地《いしじ》に繁茂する赤松の林なぞを望んだなら、色相の相違だけにも驚くであろう。
 ある朝、私は深い霧の中を学校の方へ出掛けたことが有った。五六町先は見えないほどの道を歩いて行くと、これから野面《のら》へ働きに行こうとする農夫、番小屋の側にションボリ立っている線路番人、霧に湿りながら貨物の車を押す中牛馬《ちゅうぎゅうば》の男なぞに逢った。そして私は――私自身それを感ずるように――この人達の手なぞが真紅《まっか》に腫《は》れるほどの寒い朝でも、皆な見かけほど気候に臆してはいないということを知った。
「どうです、一枚着ようじゃ有りませんか――」
 こんなことを言って、皆な歩き廻る。それでも温熱《あたたかさ》が取れるという風だ。
 それから私は学校の連中と一緒に成ったが、朝霧は次第に晴れて行った。そこいらは明るく成って来た。浅間の山の裾《すそ》もすこし顕《あらわ》れて来た。早く行く雲なぞが眼に入る。ところどころに濃い青空が見えて来る。そのうちに西の方は晴れて、ポッと日が映《あた》って来る。浅間が全く見えるように成ると、でも冬らしく成ったという気がする。最早あの山の巓《いただき》には白髪のような雪が望まれる。
 こんな風にして、冬が来る。激しい気候を相手に働くものに取って、一年中の楽しい休息の時が来る。信州名物の炬燵《こたつ》の上には、茶盆だの、漬物鉢《つけものばち》だの、煙草盆だの、どうかすると酒の道具まで置かれて、その周囲《まわり》で炬燵話というやつが始まる。

     小六月

 気候は繰返す。温暖《あたたか》な平野の地方ではそれほど際立《きわだ》って感じないようなことを、ここでは切に感ずる。寒い日があるかと思うと、また莫迦《ばか》に暖い日がある。それから復た一層寒い日が来る。いくら山の上でも、一息に冬の底へ沈んでは了《しま》わない。秋から冬に成る頃の小春日和《こはるびより》は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つである。俗に「小六月《ころくがつ》」とはその楽しさを言い顕した言葉だ。で、私はいくらかこの話を引戻して、もう一度十一月の上旬に立返って、そういう日あたりの中で農夫等が野に出て働いている方へ君の想像を誘おう。

     小春の岡辺《おかべ》

 風のすくない、雲の無い、温暖《あたたか》な日に屋外《そと》へ出て見ると、日光は眼眩《まぶ》しいほどギラギラ輝いて、静かに眺《なが》めることも出来ない位だが、それで居ながら日蔭へ寄れば矢張寒い――蔭は寒く、光はなつかしい――この暖かさと寒さとの混じ合ったのが、楽しい小春日和だ。
 そういう日のある午後、私は小諸《こもろ》の町裏にある赤坂の田圃《たんぼ》中へ出た。その辺は勾配《こうばい》のついた岡つづきで、田と田の境は例の石垣に成っている。私は枯々とした草土手に身を持たせ掛けて、眺め入った。
 手廻しの好い農夫は既に収穫を終った頃だ。近いところの田には、高い土手のように稲を積み重ね、穂をこき落した藁《わら》はその辺に置き並べてあった。二人の丸髷《まるまげ》に結った女が一人の農夫を相手にして立ち働いていた。男は雇われたものと見え、鳥打帽に青い筒袖《つつっぽ》という小作人らしい風体《ふうてい》で、女の機嫌《きげん》を取り取り籾《もみ》の俵を造っていた。そのあたりの田の面《も》には、この一家族の外に、野に出て働いているものも見えなかった。
 古い釜形帽《かまがたぼう》を冠って、黄菊一株提げた男が、その田圃道を通りかかった。
「まあ、一服お吸い」
 と呼び留められて、釜形帽と鳥打帽と一緒に、石垣に倚《よ》りながら煙草を燻《ふか》し始めた。女二人は話し話し働いた。
「金さん、お目はどうです――それは結構――ああ、ああ、そうとも――」などと女の語る声が聞えた。私は屋外に日を送ることの多い人達の生活を思って、聞くともなしに耳を傾けた。振返って見ると、一方の畦《あぜ》の上には菅笠《すげがさ》、下駄、弁当の包らしい物なぞが置いてあって、そこで男の燻す煙草の煙が日の光に青く見えた。
「さいなら、それじゃお静かに」
 と一方の釜形帽はやがて別れて行った。
 鳥打帽は鍬《くわ》を執って田の土をすこしナラし始めた。女二人が錯々《せっせ》と籾《もみ》を振《ふる》ったり、稲こきしたりしているに引替え、この雇われた男の方ははかばかしく仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、直《すぐ》に鍬を杖にして、是方《こっち》を眺めてはボンヤリと立っていた。
 岡辺は光の海であった。黒ずんだ土、不規則な石垣、枯々な桑の枝、畦の草、田の面に乾した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢《こずえ》まで、小春の光の充《み》ち溢《あふ》れていないところは無かった。
 私の眼界にはよく働く男が二人までも入って来た。一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起し始めた。今一人はいかにも背の高い、痩《や》せた、年若な農夫だ。高い石垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を顕《あらわ》して、モミを打ち始めた。遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりする槌《つち》だけは見えた。そして、その槌の音が遠い砧《きぬた》の音のように聞えた。
 午後の三時過まで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
 そのうちに、畠側《はたけわき》の柿や雑木に雀の群のかしましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。刈取られた田の面には、最早青い麦の芽が二寸ほども延びていた。
 急に私の背後《うしろ》から下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立止って、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。見ると、茶色に成った桑畠を隔てて、親子二人が収穫《とりいれ》を急いでいた。子供はお茶の入ったことを知らせに来たのだ。信州人ほど茶好な人達も少なかろうと思うが、その子供が復た馳出《かけだ》して行った後でも、親子は時を惜むという風で、母の方は稲穂をこき落すに余念なく、子息《むすこ》はその籾を叩《たた》く方に廻ってすこしも手を休めなかった。遠く離れてはいたが、手拭を冠った母の身《からだ》を延べつ縮めつするさまも、子息のシャツ一枚に成って後ろ向に働いているさまも、よく見えた。
 子供にあんなことを言われると、私も咽喉《のど》が乾いて来た。
 家へ帰って濃い熱い茶に有付きたいと思いながら、元来た道を引返そうとした。斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近《おちこち》の眺望《ながめ》が改まった。岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集ったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。

     農夫の生活

 君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう。私の話の中には、幾度《いくたび》か農家を訪ねたり、農夫に話し掛けたり、彼等の働く光景《さま》を眺めたりして、多くの時を送ったことが出て来る。それほど私は飽きない心地で居る。そして、もっともっと彼等をよく知りたいと思っている。見たところ、Openで、質素で、簡単で、半ば野外にさらけ出されたようなのが、彼等の生活だ。しかし彼等に近づけば近づくほど、隠れた、複雑な生活を営んでいることを思う。同じような服装を着け、同じような農具を携え、同じような耕作に従っている農夫等。譬《たと》えば、彼等の生活は極く地味な灰色だ。その灰色に幾通りあるか知れない。私は学校の暇々に、自分でも鍬を執って、すこしばかりの野菜を作ってみているが、どうしても未だ彼等の心には入れない。
 こうは言うものの、百姓の好きな私は、どうかいう機会を作って、彼等に近づくことを楽みとする。
 赤い茅萱《ちがや》の霜枯れた草土手に腰掛け、桟俵《さんだわら》を尻《しり》に敷き、田へ両足を投出しながら、ある日、私は小作する人達の側に居た。その一人は学校の小使の辰さんで、一人は彼の父、一人は彼の弟だ。辰さん親子は麦畠の「サク」を掛け起していたが、私の方へ来ては休み休み種々な話をした。雨、風、日光、鳥、虫、雑草、土、気候、そういうものは無くて叶《かな》わぬものでありながら、又百姓が敵として戦わねば成らないものでもある。そんなことから、この辺の百姓が苦むという種々な雑草の話が出た。水沢瀉《みずおもだか》、えご、夜這蔓《よばいづる》、山牛蒡《やまごぼう》、つる草、蓬《よもぎ》、蛇苺《へびいちご》、あけびの蔓、がくもんじ(天王草)その他田の草取る時の邪魔ものは、私なぞの記憶しきれないほど有る。辰さんは田の中から、一塊《ひとかたまり》の土を取って来て、青い毛のような草の根が隠れていることを私に示した。それは「ひょうひょう草」とか言った。この人達は又、その中から種々な薬草を見分けることを知っていた。「大抵の御百姓に、この稲は何だなんて聞いても、名を知らないのが多い位に、沢山いろいろと御座います」
 話好きな辰さんの父親《おやじ》は、女穂《めほ》、男穂《おとこほ》のことから、浅間の裾で砂地だから稲も良いのは作れないこと、小麦畠へ来る鳥、稲田を荒らすという虫類の話などを私にして聞かせた。「地獄|蒔《まき》」と言って、同じ麦の種を蒔くにも、農夫は地勢に応じたことを考えるという話
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