亜刺比亜《アラビア》産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御|喜悦《よろこび》は何程《どんな》でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓《ふもと》の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。
静かな山村の夜――河水の氾濫《はんらん》を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯《ともしび》――鄙《ひな》びた旅舎《やどや》の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊《そうゆう》の地をもう一度見ることが出来た。
ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地《うまどころ》だ。馬が土地の人の主なる財産だ。娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
風呂桶《ふろおけ》が下水の溜《ため》の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとはいえ――又、それほど生活を簡易にする必要があるとはいえ――来て見る度《たび》に私を驚かす。ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類に成る人が提灯《ちょうちん》つけて旅舎《やどや》へ訪ねて来た。ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
その娘も今では養子して、子供まであるとか。こういう山村に連関して、下女奉公する人達の一生なぞも何となく私の心を引いた。
君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。熱い灰の中で焼いた蕎麦餅《そばもち》だ。草鞋穿《わらじばき》で焚火《たきび》に温《あた》りながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺《ろばた》の楽しい光景《ありさま》なのだ。
高原の上
翌朝私達は野辺山が原へ上った。私の胸には種々な記憶が浮び揚《あが》って来た。ファラリイスの駒《こま》三十四頭、牝馬《めうま》二百四十頭、牡馬《おうま》まで合せて三百余頭の馬匹《ばひつ》が列をつくって通過したのも、この原へ通う道だった。馬市の立つというあたりに作られた御|仮屋《かりや》、紫と白との幕、あちこちに巣をかけた商人《あきんど》、四千人余の群集、そんなものがゴチャゴチャ胸に浮んで来た。あの時は、私は仕立屋と連立って、秋の日のあたった原の一部を歩き廻ったが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随《つ》いて来た背の高い参事官だ。白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士だった。それで居て動作には敏捷《びんしょう》なところもあった。丁度あの頃私はトルストイの「アンナ・カレニナ」を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイの型《タイプ》をその参事官に当嵌《あてはめ》てみたりなぞした。あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取出して、八つが岳の方に見える牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。最早霜が来るらしい雑草の葉のあるいは黄に、あるいは焦茶色に成ったのを踏んで、ポツンポツンと立っている白樺《しらかんば》の幹に朝日の映《あた》るさまなぞを眺《なが》めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、蕎麦《そば》なぞを蒔《ま》いたところもあって、それを耕す人達がところどころに僅《わず》かな村落を形造っている。板橋村はその一番|取付《とっつき》にある村だ。
以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾《すそ》の見えた八つが岳が次第に険《けわ》しい山骨を顕《あら》わして来て、終《しまい》に紅色の光を帯びた巓《いただき》まで見られる頃は、影が山から山へ映《さ》しておりました。甲州に跨《またが》る山脈の色は幾度《いくたび》変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空に成りました。ああ朝です。
男山《おとこやま》、金峯山《きんぶざん》、女山《おんなやま》、甲武信岳《こぶしがたけ》、などの山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
夫婦とあるは、私がその話の中に書こうとした人物だ。一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
「筒袖《つつそで》の半天に、股引《ももひき》、草鞋穿《わらじばき》で、頬冠《ほおかぶ》りした農夫は、幾群か夫婦の側を通る。鍬《くわ》を肩に掛けた男もあり、肥桶《こえおけ》を担《かつ》いで腰を捻《ひね》って行く男もあり、爺《おやじ》の煙草入を腰にぶらさげながら随いて行く児もありました。気候、雑草、荒廃、瘠土《せきど》などを相手に、秋の一日の烈《はげ》しい労働が今は最早始まるのでした。
既に働いている農夫もありました。黒々とした「ノッペイ」の畠の側を進んでまいりますと、一人の荒くれ男が汗雫《あせみずく》に成って、傍目《わきめ》をふらずに畠を打っておりました。大きな鍬を打込んで、身《からだ》を横にして仆《たお》れるばかりに土の塊《かたまり》を起す。気の遠くなるような黒土の臭気《におい》は紛《ぷん》として、鼻を衝《つ》くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
高原の秋は今です。見渡せば木立もところどころ。枝という枝は南向に生延びて、冬季に吹く風の勁《つよ》さも思いやられる。白樺は多く落葉して高く空に突立ち、細葉の楊樹《やなぎ》は踞《うずくま》るように低く隠れている。秋の光を送る風が騒しく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡《なび》いて、柏の葉もうらがえりました。
ここかしこに見える大石には秋の日があたって、寂しい思をさせるのでした。
「ありしおで」の葉を垂れ、弘法菜《こうぼうな》の花をもつのは爰《ここ》です。
「かしばみ」の実の落ちこぼれるのも爰《ここ》です。
爰《ここ》には又、野の鳥も住み隠れました。笹の葉蔭に巣をつくる雲雀《ひばり》は、老いて春先ほどの勢も無い。鶉《うずら》は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。見れば不格好《ぶかっこう》な短い羽をひろげて、舞揚《まいあが》ろうとしてやがて、パッタリ落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
外《ほか》の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝《みどりがち》な蔭をとどめたところも有る。それは水の流を旅人に教えるので、そこには雑木が生茂って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。
今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものも少い。八つが岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、冬季の秣《まぐさ》に乏しいので、遠く爰《ここ》まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました……」
これは主に旧道から見た光景《さま》だ。趣の深いのも旧道だ。
以前私は新道の方をも取って、帰り路《みち》に原の中を通ったこともある。その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。彼等は弁当を食いながら歩いていた。聞いてみると往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈集めなければ成らない。朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食っている暇が無いという。馬を引いて歩きながらの弁当――実に忙《せわ》しい生活の光景《さま》だと思った。
こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を取って歩いて行った。三軒家という小さな村を離れてからは人家を見ない。
この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。今は馬匹《ばひつ》を見ることも少いが、丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠く見える。
白樺《しらかんば》の下葉は最早落ちていた。枯葉や草のそよぐ音――殊に槲《かしわ》の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い、日の熱い高原の上を旅することを思わせる。
「まぐそ鷹《たか》」というが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。私達はところどころにある茶色な楢《なら》の木立をも見て通った。それが遠い灰色の雲なぞを背景《バック》にして立つさまは、何んとなく茫漠《ぼうばく》とした感じを与える。原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。T君に聞くと、それは松虫草とか言った。この辺は古い戦場の跡ででもあって、往昔《おうせき》海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる場所もある。
甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨《こなし》を見つけた。葉は落ち尽して、小さな赤い実が残っていた。草を踏んで行ってその実を採って見ると、まだ渋い。中には霜に打たれて、口へ入れると溶けるような味のするもあった。間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻《けわ》しい坂道を甲州の方へ下りた。
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その七
落葉《らくよう》の一
毎年十月の二十日といえば、初霜を見る。雑木林や平坦《たいら》な耕地の多い武蔵野《むさしの》へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見慣れている君に、この山の上の霜をお目に掛けたい。ここの桑畠《くわばたけ》へ三度《みたび》や四度もあの霜が来て見給え、桑の葉は忽《たちま》ち縮み上って焼け焦げたように成る、畠の土はボロボロに爛《ただ》れて了《しま》う……見ても可恐《おそろ》しい。猛烈な冬の威力を示すものは、あの霜だ。そこへ行くと、雪の方はまだしも感じが柔かい。降り積る雪はむしろ平和な感じを抱《いだ》かせる。
十月末のある朝のことであった。私は家の裏口へ出て、深い秋雨のために色づいた柿の葉が面白いように地へ下《くだ》るのを見た。肉の厚い柿の葉は霜のために焼け損《そこな》われたり、縮れたりはしないが、朝日があたって来て霜のゆるむ頃には、重さに堪《た》えないで脆《もろ》く落ちる。しばらく私はそこに立って、茫然《ぼうぜん》と眺《なが》めていた位だ。そして、その朝は殊《こと》に烈《はげ》しい霜の来たことを思った。
落葉の二
十一月に入って急に寒さを増した。天長節の朝、起出して見ると、一面に霜が来ていて、桑畠も野菜畠も家々の屋根も皆な白く見渡される。裏口の柿の葉は一時に落ちて、道も埋れるばかりであった。すこしも風は無い。それでいて一|葉《は》二葉ずつ静かに地へ下る。屋根の上の方で鳴く雀《すずめ》も、いつもよりは高くいさましそうに聞えた。
空はドンヨリとして、霧のために全く灰色に見えるような日だった。私は勝手元の焚火《たきび》に凍えた両手をかざしたく成った。足袋《たび》を穿《は》いた爪先も寒くしみて、いかにも可恐《おそろ》しい冬の近よって来ることを感じた。この山の上に住むものは、十一月から翌年の三月まで、殆《ほと》んど五ヶ月の冬を過さねば成らぬ。その長い冬籠《ふゆごも》りの用意をせねば成らぬ。
落葉の三
木枯が吹いて来た。
十一月中旬のことであった。ある朝、私は潮の押寄せて来るような音に驚かされて、眼が覚めた。空を通る風の音だ。時々それが沈まったかと思うと、急に復《ま》た吹きつける。戸も鳴れば障子も鳴る。殊に南向の障子にはバラバラと木の葉のあたる音がしてその間には千曲川の河音も平素《ふだん》から見るとずっと近く聞えた。
障子を開けると、木の葉は部屋の内までも舞込んで
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