教師の持山だ。松葉の枯れ落ちた中に僅かに数本の黄しめじと、牛額《うしびたい》としか得られなかった。それから笹の葉の間なぞを分けて「部分木《ぶぶんぼく》の林」と称《とな》える方に進み入った。
私達は可成深い松林の中へ来た。若い男女の一家族と見えるのが、青松葉の枝を下したり、それを束ねたりして働いているのに逢った。女の方は二十前後の若い妻らしい人だが、垢染《あかじ》みた手拭《てぬぐい》を冠《かぶ》り、襦袢肌抜《じゅばんはだぬ》ぎ尻端折《しりはしょり》という風で、前垂を下げて、藁草履《わらぞうり》を穿《は》いていた。赤い荒くれた髪、粗野な日に焼けた顔は、男とも女ともつかないような感じがした。どう見ても、ミレエの百姓画の中に出て来そうな人物だ。
その弟らしいのが三四人、どれもこれも黒い垢のついた顔をして、髪はまるで蓬《よもぎ》のように見えた。でも、健《すこや》かな、無心な声で、子供らしい唄を歌った。
母らしい人も林の奥から歩いて来た。一同仕事を休《や》めて、私達の方をめずらしそうに眺めていた。
この人達の働くあたりから岡つづきに上って行くとこう平坦《たいら》な松林の中へ出た。刈草を負《しょ》った男が林の間の細道を帰って行った。日は泄《も》れて、湿った草の上に映《あた》っていた。深い林の中の空気は、水中を行く魚かなんぞのようにその草刈男を見せた。
がらがらと音をさせて、柴《しば》を積んだ車も通った。その音は寂しい林の中に響き渡った。
熊笹《くまざさ》、柴などを分けて、私達は蕈《きのこ》を探し歩いたが、その日は獲物は少なかった。枯葉を鎌《かま》で掻除《かきの》けて見ると稀《たま》にあるのは紅蕈《べにたけ》という食われないのか、腐敗した初蕈《はつだけ》位のものだった。終《しまい》には探し疲れて、そうそうは腰も言うことを聞かなく成った。軽い腰籠《こしご》を提げたまま南瓜《かぼちゃ》の花の咲いた畠のあるところへ出て行った。山番の小屋が見えた。
山番
番小屋の立っている処は尾の石と言って、黒斑山《くろふやま》の直ぐ裾にあたる。
三峯神社とした盗難除《とうなんよけ》の御札を貼付《はりつ》けた馬小屋や、萩《はぎ》なぞを刈って乾してある母屋《おもや》の前に立って、日の映《あた》った土壁の色なぞを見た時は、私は余程人里から離れた気がした。
鋭い眼付きの赤犬が飛んで来た。しきりと私達を怪《あやし》むように吠《ほ》えた。この犬は番人に飼われて、種々《いろいろ》な役に立つと見えた。
番小屋の主人が出て来て私達を迎えてくれた頃は、赤犬も頭を撫《な》でさせるほどに成った。主人は鬚《ひげ》も剃《そ》らずに林の監督をやっているような人であった。細君は襷掛《たすきがけ》で、この山の中に出来た南瓜《かぼちゃ》なぞを切りながら働いていた。
四人の子供も庭へ出て来た。一番|年長《うえ》のは最早《もう》十四五になる。狭い帯を〆《しめ》て藁草履《わらぞうり》なぞを穿《は》いた、しかし髪の毛の黒い娘《こ》だ。年少《としした》の子供は私達の方を見て、何となくキマリの悪そうな羞《はじ》を帯びた顔付をしていた。その側には、トサカの美しい、白い雄鶏《おんどり》が一羽と、灰色な雌鶏《めんどり》が三羽ばかりあそんでいたが、やがてこれも裏の林の中へ隠れて了《しま》った。
小屋は二つに分れて、一方の畳を敷いたところは座敷ではあるが、実際|平素《ふだん》は寝室と言った方が当っているだろう。家族が食事したり、茶を飲んだり、客を迎えたりする炉辺《ろばた》の板敷には薄縁《うすべり》を敷いて、耕作の道具食器の類はすべてその辺《あたり》に置き並べてある。何一つ飾りの無い、煤《すす》けた壁に、石版画の彩色したのや、木版刷の模様のついた暦なぞが貼付けてあるのを見ると、そんな粗末な版画でも何程かこの山の中に住む人達の眼を悦《よろこ》ばすであろうと思われた。暮の売出しの時に、近在から町へ買物に来る連中がよくこの版画を欲しがるのも、無理は無いと思う。
私達は草鞋掛《わらじがけ》のまま炉辺で足を休めた。細君が辣韮《らっきょう》の塩漬《しおづけ》にしたのと、茶を出して勧めてくれた。渇《かわ》いた私達の口には小屋で飲んだ茶がウマかった。冬はこの炉に焚火《たきび》を絶《たや》したことが無いと、主人が言った。ここまで上ると、余程気候も違う。
一緒に行った学生は、小屋の裏の方まで見に廻って、柿は植えても渋が上らないことや、梅もあるが味が苦いことや、桃だけはこの辺の地味にも適することなど種々な話を主人から聞いて来た。
やがて昼飯時だ。
庭の栗の樹の蔭で、私達は小屋で分けて貰《もら》った蕈《きのこ》を焼いた。主人は薄縁を三枚ばかり持って来て、樹の下へ敷いてくれた。そこで昼飯が始まった。細君は別に鶏と茄子《なす》の露、南瓜《とうなす》の煮付を馳走振《ちそうぶり》に勧めてくれた。いずれも大鍋《おおなべ》にウンとあった。私達は各自《めいめい》手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。
この山の中で林檎《りんご》を試植したら、地梨《じなし》の虫が上って花の蜜《みつ》を吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。
食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡《おおよそ》一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少《すくな》し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。
私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦《そば》は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏《いちょう》、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播《ま》いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。
落葉松《からまつ》の畠も見えた。その苗は草のように嫩《やわら》かで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲《まわり》には地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。尤《もっと》も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚《くぬぎ》の木炭を焼いているという話もした。
この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野《ひしの》の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘《いなかむすめ》の村は菱野だから。
土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。
彼処《あそこ》はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺《しらかんば》なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
白樺の幹は何処《どこ》の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早《もう》美しく黄ばんだのも混っていた。
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その六
秋の修学旅行
十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和《ひより》で楽しい旅を続けることが出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾《すそ》から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪《すわ》へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸《こもろ》へ戻って来た。この旅には殆《ほと》んど一週間を費した。私達は蓼科《たでしな》、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。
その中でも、千曲川の上流から野辺山《のべやま》が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。この旅で、私は以前の記憶を新しくした。その話を君にしようと思う。
甲州街道
小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前《めのまえ》に展《ひら》けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間《たにあい》を流れている。
一体、犀川《さいかわ》に合するまでの千曲川は、殆《ほと》んど船の影を見ない。唯《ただ》、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
私は、佐久、小県《ちいさがた》の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰《みおろ》した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田《うすだ》、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
馬流《まながし》というところまで岸に添うて遡《さかのぼ》ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧《むし》ろ大きな谿流《けいりゅう》に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州|商人《あきんど》の往来するのも見られる。
馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司《ぐうじ》で、街道からすこし離れた幽邃《ゆうすい》な松原湖の畔《ほとり》にある。Tは私達を待受けていたのだ。
白楊《どろ》、蘆《あし》、楓《かえで》、漆《うるし》、樺《かば》、楢《なら》などの類が、私達の歩いて行く河岸に生《お》い茂っていた。両岸には、南牧《みなみまき》、北牧、相木《あいぎ》などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊《おおくずれ》の跡、金峯《きんぶ》、国師《こくし》、甲武信《こぶし》、三国《みくに》の山々、その高く聳《そび》えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望《ちょうぼう》の中に入った。
日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟《けむり》の立登るのも見えた。
この谷の尽きたところに海《うみ》の口《くち》村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。
山村の一夜
この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。
「清仏《しんふつ》戦争の後、仏蘭西《フランス》兵の用いた軍馬は吾《わが》陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹《ばひつ》が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専《おも》にこのアルゼリイ種を指したものです。その後|亜米利加《アメリカ》産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山《のべやま》が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂《うわ》さが某《それがし》の宮殿下の御耳まで届くように成りました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好ですから、御|寵愛《ちょうあい》のファラリイスと云《いう》
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