け離れた生活を送っている人もある。
以前ある駅長が残して行った話だと言って、按摩はまた次のようなことを私に語って聞かせた。「もと、越後の酒造《さかづくり》で、倉番した人ということで御座います。遽《にわ》かに出世致しまして、ここの駅長さんと御成んなさいました。ある時、電信掛の技手に向い、葡萄酒罎《ぶどうしゅびん》の貼紙《はりがみ》を指しまして、どうだ君にこの英語が読めるかとそう申しました。読めるなら一升|奢《おご》ろうというんで御座います。その駅長さんの無学なことは技手も承知しておりましたから、わざと私には読めません、貴方《あなた》一つ御読みなすって下さい。それこそ私が酒でもこの葡萄酒でも奢りますからと申しました。フムそうか、君はよくこんなものが読めなくて鉄道が勤まるネ、そんな話でその場は分れて了いました。技手はもし譴責《けんせき》でもされたら酒にかこつける下心で、すこし紅い顔をして駅長さんの前に出ました。先刻は大きに失礼致しました、憚《はばか》りながらこんなものは英語のイロハだ、皆さんも聞いて下さい。この貼紙にはこう云うことが書いてあると言うて、ペロペロと読んで聞かせました。ウンそうかい、そういうことが書いてあるのかい、成程君はエライものだ、そういう学力があろうとは今まで思わなかった……」
こんな口論の末から駅長と技手とはすべて反対に出るように成った。間もなくその駅長は面白くなくて、小諸を去ったとか。
線路の側に立っているポイント・メンこそはこの山の上で寂しい生活を送る移住者の姿であろう。勤めの時間は二昼夜にわたって、それで一日の休みにありつくという。労働の長いのに苦むとか。私は学校の往還《いきかえり》に、懐古園の踏切を通るが、あの見張番所のところには、ポイント・メンが独りでポツンと立っているのをよく見かける。
柳田|茂十郎《もじゅうろう》
先代柳田茂十郎さんと言えば、佐久地方の商人として、いつでも引合に出される。茂十郎さんの如きは極端に佐久|気質《かたぎ》を発揮した人の一人だ。
諸国まで名を知られたこの商人も、一時は商法の手違いから、豆腐屋にまで身を落したことがある。そこまで思い切って行ったところが茂十郎さんかも知れない。でも、この人が小諸で豆腐屋を始めた時は、誰も気の毒に思って買う人が無かったとのことだ。茂十郎さんの家では、もと酒屋であったが、造酒《つくりざけ》は金を寝かして商法に働きの少いのを見て取り、それから茶商に転じたという。時間の正しい人で、すこしでも掛値[#「掛値」は底本では「掛直」]《かけね》すれば、ずんずん帰って行くという風であったとか。幾人かの子に店を出させ、存命中はキチンキチンと屋賃を取り、死に際《ぎわ》にその店々を分けてくれて行った。一度でも茂十郎さんの家へ足踏したもののためには、死後に形見が用意してあったと言って驚いて、他《ひと》に話した女があったということも聞いた。私達の学校の校長に逢うと、よく故人の話が出て、客に呼ばれて行って一座した時でも無駄には酒を飲まなかったと言って徳利を控えた手付までして聞かせる。
「酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです」
万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。
小作人の家
学校の小使の家を訪ねる約束をした。辰さんは年貢《ねんぐ》を納める日だから私に来て見ろと言ってくれた。
小諸新町の坂を下りると、浅い谷がある。細い流を隔てて水車小屋と対したのが、辰さんの家だ。庭には蓆《むしろ》を敷きつめ、籾《もみ》を山のように積んで、辰さん兄弟がしきりと働いていた。
かねて懇意な隠居に伴われて私は暗い小作人の家へ入った。猫の入物《いれもの》とかで、藁《わら》で造った行火《あんか》のようなものが置いてある。私には珍らしかった。しるしばかりに持って行った手土産を隠居は床の間の神棚の前に供え、鈴を振り鳴らし、それから炬燵《こたつ》にあたりながら種々な話を始めた。極く無愛想な無口な五十ばかりの痩《や》せた女も黙って炬燵にあたっていた。その側には辰さんの小娘も余念なく遊んでいた。この無口な女と、竈《かまど》の前に蹲踞《うずくま》っている細帯|〆《しめ》た娘とは隠居の家に同居する人らしかった。で、私はこれらの人に関わず隠居の話に耳を傾けた。
話好きな面白い隠居は上州と信州の農夫の比較なぞから、種々な農具のことや地主と小作人の関係なぞを私に語り聞かせた。この隠居の話で、私は新町辺の小作人の間に小さな同盟|罷工《ひこう》ともいうべきが時々持ち上ることを知った。隠居に言わせると、何故小作人が地主に対して不服があるかというに、一体にこの辺では百坪を一升|蒔《まき》と称《とな》え、一ツカを三百坪に算し、一升の籾は二百八十目に量って取立てる、一ツカと言っても実際三百坪は無い、三百坪なくて取立てるのはその割で取る、地主と半々に分けるところは異数な位だ。そこで小作人の苦情が起る。無智な小作人がまた地主に対する態度は、種々なところで人の知らない復讐《ふくしゅう》をする。仮令《たとえ》ば俵の中へ石を入れて目方を重くし、俵へ霧を吹いて目をつけ、又は稲の穂を顧みないで藁を大事にし、その他種々な悪戯《いたずら》をして地主を苦める。こんなことをしたところで、結局「三月四月は食いじまい」だ。尤も、そのうちには麦も取れる。
「しかし私の時には定屋《じょうや》様(地主)がお出《いで》なさると、必《きっ》と一升買って、何がなくとも香の物で一杯上げるという風でした。今年は悴《せがれ》に任しときましたから、彼奴《あいつ》はまたどんな風にするか……私の時には昔からそうでした」
こう隠居は私に話して笑った。
そのうちに家の外では「定屋さんになア、来て御くんなんしょって、早く行って来てくれや」という辰さんの声がする。日の光は急に戸口より射し入り、暗い南の明窓《あかりまど》も明るくなった。「ああ、日が射して来た、先刻《さっき》までは雪模様でしたが、こりゃ好い塩梅《あんばい》だ」と復た辰さんが言っていた。
細帯締た娘は茶を入れて私達の方へ持って来てくれた。炬燵にあたっていた無口な女は、ぷいと台所の方へ行った。
隠居は小声に成って、
「私も唯《たった》一人ですし、平常《ふだん》は誰も訪ねて来るものが無いんです。年寄ですからねえ……ですから置いてくれというので、ああいうものを引受けて同居さしたところが忰が不服で黙ってあんなものを入れたって言いますのさ」
「飯なぞは炊《た》いてくれるんですか」と私が聞いた。
「それですよ、世間の人はそう思う。ところが私は炊いて貰わない。どうしてそんな事をしようものなら皆な食われて了う……そこは私もなかなか狡《こす》いや。だけれども世間の人はそう言わない。そこがねえ辛《つら》いと言うもんです」
古い洋傘《こうもり》の毛繻子《けじゅす》の今は炬燵掛と化けたのを叩いて、隠居は掻口説《かきくど》いた。この人の老後の楽みは、三世相《さんぜそう》に基づいて、隣近所の農夫等が吉凶を卜《うらな》うことであった。六三の呪禁《まじない》と言って、身体の痛みを癒《なお》す祈祷《きとう》なぞもする。近所での物識《ものしり》と言われている老農夫である。私はこの人から「言海」のことを聞かれて一寸驚かされた。
「昔の恥を御話し申すんじゃないが、私も若い時には車夫をしてねえ、日に八両ずつなんて稼《かせ》いだことが有りましたよ。八両サ。それがねえ、もうぱっぱと湯水のように無くなって了う。どうして若い時の勢ですもの。私はこれで、どんなことでも人のすることは大概してみましたが、博奕《ばくち》と牢屋の味ばかしは知らない――ええこればかしは知らない」
こう隠居が笑っているところへ、黄な真綿帽子を冠った五十|恰好《かっこう》の男が地味な羽織を着て入って来た。
「定屋さんですよ」と辰さんが呼んだ。
地主は屋《うち》の内《なか》に入って炬燵に身を温めながら待っていた。私が屋外《そと》の庭の方へ出ようとすると、丁度水車小屋の方から娘が橋を渡って来て、そこに積み重ねた籾《もみ》の上へ桝《ます》を投げて行った。辰さんは年貢の仕度を始めた。五歳ばかりの小娘が来て、辰さんの袖《そで》に取縋《とりすが》った。辰さんが父親らしい情の籠《こも》った口調で慰めると、娘は頭から肩まで顫《ふる》わせて、泣く度に言うこともよく解らない位だった。
「今に母さんが来るから泣くなよ」
「手が冷たい……」
「ナニ、手が冷たい? そんなら早く行ってお炬燵《こた》へあたれ」
凍った娘の手を握りながら、辰さんは家の内へ連れて行った。
谷に面した狭い庭には枯々な柿の樹もあった。向うの水車も藁囲《わらがこ》いされる頃で、樋《とい》の雫《しずく》は氷の柱に成り、細谷川の水も白く凍って見える。黄ばんだ寒い日光は柿の枯枝を通して籾を積み上げた庭の内を照らして見せた。年老いた地主は白髪頭《しらがあたま》を真綿帽子で包みながら、屋《うち》の内から出て来た。南窓の外にある横木に倚凭《よりかか》って、寒そうに袖口《そでぐち》を掻合《かきあわ》せ、我と我身を抱き温めるようにして、辰さん兄弟の用意するのを待った。
「どうで御座んすなア、籾の造《こしら》え具合は」
と辰さんに言われて、地主は白い柔かい手で籾を掬《すく》って見て一粒口の中へ入れた。
「空穂《しいな》が有るねえ」と地主が言った。
「雀に食われやして、空穂でも無いでやす。一俵造えて掛けて見やしょう」
地主は掌中《てのひら》の籾をあけて、復た袖口を掻き合せた。
辰さんは弟に命じて籾を箕《み》に入れさせ、弟はそれを円い一斗桝に入れた。地主は腰を曲《かが》めながら、トボというものでその桝の上を丁寧に撫《な》で量った。
「貴様入れろ、声掛けなくちゃ御年貢のようで無くて不可《いけねえ》」と辰さんは弟に言った。「さあ、どっしり入れろ」
「一わたりよ、二わたりよ」と弟の呼ぶ声が起った。
六つばかりの俵がそこに並んだ。一俵に六斗三升の籾が量り入れられた。辰さんは桟俵《さんだわら》を取って蓋《ふた》をしたが、やがて俵の上に倚凭《よりかか》って地主と押問答を始めた。地主は辰さんの言うことを聞いて、目を細め、無言で考えていた。気の利《き》いた弟は橋の向うへ走って行ったかと思ううちに、酒徳利を風呂敷包にして、頬を紅くし、すこし微笑《ほほえ》みながら戻って来た。
「御年貢ですか、御目出度《おめでと》う」と言って入って来たのは水車小屋の亭主だ。
私は、藁仕事なぞの仕掛けてある物置小屋の方に邪魔にならないように居て、桟俵なぞを尻に敷きながら、この光景を眺めた。辰さんは俵に足を掛けて藁縄《わらなわ》で三ところばかり縛っていた。弟も来てそれを手伝うと、乾いた縄は時々切れた。「俵を締るに縄が切れるようじゃ、まだ免状は覚束《おぼつか》ないなア」と水車小屋の亭主も笑って見ていた。
「一俵掛けて見やしょう」
「いくらありやす。出放題《でほうでえ》あるわ。十八貫八百――」
「これは魂消《たまげ》た」
「十八貫八百あれば、まあ好い籾です」
「俵《ひょう》にもある」
「そうです、俵にもありやすが、それは知れたもんです」
「おらがとこは十八貫あれば可いだ」
「なにしろ坊主九分混りという籾ですからなア」
人々の間にこんな話が交換《とりかわ》された。水車小屋の亭主は地主に向って、米価のことを話し合って、やがて下駄穿のまま籾の上を越して別れて行った。
「どうだいお前の体格じゃ二俵位は大丈夫担げる」
と地主に言われて辰さんの弟は一俵ずつ両手に抱え、顔を真紅にして持ち上げてみたりなぞして戯れた。
「まあ、お茶一つお上り」
と辰さんは地主に言って、私にもそれを勧めた。真綿帽子を脱いで屋《うち》の内に入る地主の後に随いて、私も凍えた身体を暖めに行った。「六俵の二斗五升取りですか」
こう辰さんが言ったのを隠居は炬燵にあたりながら聞咎《ききとが》めた。地主の前に酒徳利の包を解きながら、
「二斗五升ってことが有るもんか。四
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