違う。
暗くなるまで私は雪の町を見て廻った。荷車の代りに橇《そり》が用いられ、雪の上を馬が挽《ひ》いて通るのもめずらしかった。蒲《がま》で編んだ箕帽子《みぼうし》を冠り、色目鏡を掛け、蒲脚絆《がまはばき》を着け、爪掛《つまかけ》を掛け、それに毛布《ケット》だの、ショウルだので身を包んだ雪装束の人達が私の側を通った。
復た霙が降って来た。千曲川の岸へ出て見ると、そこは川船の着いたところで対岸へ通うウネウネと長い舟橋の上には人の足跡だけ一筋茶色に雪の上に印されたのが望まれた。時には雪鞋《ゆきぐつ》穿いた男にも逢ったが、往来《ゆきき》の人の影は稀《まれ》だった。高社《たかしろ》、風原《かざはら》、中の沢、その他信越の境に聳《そび》ゆる山々は、唯僅かに山層のかたちを見せ、遠い村落も雪の中に沈んだ。千曲川の水は寂しく音もなく流れていた。
しかし試みにサクサクと音のする雪を踏んで、舟橋の上まで行って見ると、下を流れる水勢は矢のように早い。そこから河原を望んだ時は一面の雪の海だった――そうだ、白い海だ。その白さは、唯の白さでなく、寂莫《せきばく》とした底の知れないような白さだった。見ているうちに、全身|顫《ふる》えて来るような白さだった。
愛のしるし
飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。縁を切るという場合には手拭を裂くという。だからこの辺の近在の女は皆な手拭を大切にして、落して置くことを嫌《きら》うとか。
これは縁起が好いとか、悪いとかいう類《たぐい》の話に近い。でも優しい風俗だ。
山の上へ
「水内《みのち》は古代には一面の水沢《すいたく》であったろう――その証拠には、飯山あたりの町は砂石の上に出来ている。土を掘って見ると、それがよく分る」
種々の土地の話を聞き、同行した娘達を残して置いて翌朝私は飯山を発《た》った。舟橋を渡って、対岸から町の方に城山なぞを望み、それから岸の上の桑畠の雪に埋れた中を橇《そり》で走らせた。その橇は人力車の輪を取除《とりはず》して、それに「いたや」の堅い木片で造った橇を代用したようなものだ。梶棒《かじぼう》と後押棒《あとかじぼう》とあって人夫が二人掛りで引いたり押したりする。低い橇の構造だから梶棒を高く揚げると、乗った客はいくらか尻餅《しりもち》ついた形になる。とは言え、この乗りにくい橇が私の旅の心を喜ばせた。私は子供のような物めずらしさを以て人夫達の烈《はげ》しい呼吸《いき》を聞いた。凍った雪の上を疾走して行った時は、どうかすると私は桑畠の中へ橇|諸共《もろとも》ブチマケラレそうな気がした。
「ホウ――ヨウ――」という掛声と共に、雪の上を滑《すべ》る橇の音、人夫達がサクサク雪を踏んで行く音まで私の耳に快感を起させた。川船で通って来た岸の雪景色は私の前に静かに廻転した。
中野近くで橇を降りた。道路に雪のある間は足も暖かであったが、そのうちに黄ばんだ泥をこねて行くような道に成って、冷く、足の指も萎《しび》れた。親切な飯山の宿で、爪掛《つまかけ》を貰って、それを私は草鞋《わらじ》の先に掛けて穿《はい》て来た。
一月十四日のことで村々では「ものづくり」というものを祝った。「みずくさ」という木の赤い条《えだ》に、米の粉をまるめて繭《まゆ》の形をつくる。それを神棚に飾りつける。養蚕の前祝だという。
帰りには、日光の為に眼もまぶしく、雪の反射で悩まされた。その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた。
豊野から復た汽車で、山の上の方へ戻って行った時は次第に寒さの加わることを感じた。けれども私は薄暗い陰気な雪の中からいくらか明るい空の方へ出て来たような気がして、ホッと息を吐《つ》いた。
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その十一
山に住む人々の一
以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇《そり》で帰ったとは反対の側にある新道《しんみち》に添うて――黄ばんだ稲田の続いた静間平《しずまだいら》を通り、ある村はずれの休茶屋に腰掛けたことが有った。その時、私は善光寺の方へでも行く「お寺さんか」と聞かれて意外の問に失笑した事が有った。同行の画家B君は外国仕込の洋服を着、ポケットに写生帳を入れていたが、戯れに「お寺さん」に成り済まして一寸《ちょっと》休茶屋の内儀《おかみ》をまごつかせた。私が笑えば笑う程、余計に内儀は私達を「お寺さん」にして了《しま》って、仮令《たとえ》内幕は世俗の人と同じようでも、それも各自の身に具《そなわ》ったものであることなどを、半ば羨《うらや》み、半ば調戯《からか》うような調子で言った。この内儀の話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」の生活の一面を語るものだ。
私は飯山行の話の中で、土地の人の信心深いことや、あの山間の小都会に二十何ヶ所の寺院のあることや、そういう旧態の保存されているところは一寸|上方《かみがた》へでも行ったような気のする事を君に言って置いた。この古めかしい空気は、激しく変り行く「時」の潮流の中で、何時まで突き壊《くず》されずに続くものだろうか。とにかく、長い冬季を雪の中に過すような気候や地勢と相待って、一般の人の心に宗教的なところのあるのは事実のようだ。これは千曲川の下流に行って特にそう感ぜられる。
長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし、それに眺望《ちょうぼう》の好い往生寺の境内を歩いて見た位のもので、実際どういう人があるのか、精《くわ》しくは知らない。飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢ってみた。連添う老婦人もなかなかのエラ者だ。この人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶《なお》活動を忘れないでいるという風だ。その寺では、丁度|檀家《だんか》に法事があるとやらで、御画像《おえぞう》というものを箱に入れ鄭重《ていちょう》な風呂敷包にして借りて行く男なぞを見かけた。一寸したことだが、古風に感じた。
君は印度《インド》に於ける仏蹟《ぶっせき》探検の事実を聞いたことがあるか。その運動に参加した僧侶の一人は、この老僧の子息《むすこ》さんで、娘の婿にあたる学士も矢張一行の中に加わった人だ。学士は当時英国留学中であったが、病弱な体躯《たいく》を提《ひっさ》げて一行に加わり、印度内地及び錫蘭《セイロン》に於ける阿育王《あいくおう》の遺跡なぞを探り、更に英国の方へ引返して行く途中で客死した。この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山の寺に遺《のこ》っていたが、熱帯地方の旅の苦みを書きつけてあったのなぞは殊《こと》に、私の心を引いた。老僧の子息さんは兵役に服しているとかで、その人には私は逢ってみなかった。旧《ふる》い朽ちかかったような寺院の空気の中から、とにかくこういう新人物が生れている。そしてそういう人達の背後には、親であり又た舅《しゅうと》姑《しゅうとめ》である老僧夫婦のような人達があって、幾十年となく宗教的な生活を送って来たことが想像される。
しかし飯山地方に古めかしい宗教的の臭気《におい》が残っていて、二十何ヵ所の寺院が仮令《たとえ》維持の方法に苦みながらも旧態を保存しているということは、偶然でない。私はその老僧から、飯山の古い城主の中には若くて政治的生涯を離れ、僧侶の服を纏い、一生仏教の伝道に身を委《ゆだ》ねた人のあったことを聞いた。又、白隠《はくいん》、恵端《えたん》、その他すぐれた宗教家がそこに深い歴史的の因縁を遺していることも聞いた。
こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。第一そういう土地柄で無いし、そういう歴史の背景も無いし法《のり》の残燈を高く掲げているような老僧のような人も見当らない。私は小諸辺で幾人かの僧侶に逢ってみたが、実際社会の人達に逢っていると殆んど変りが無いように思った。養蚕時が来れば、寺の本堂の側《わき》に蚕の棚《たな》が釣られる。僧侶も労働して、長い冬籠《ふゆごもり》の貯えを造らなければ成らない。
山に住む人々の二
学問の普及ということはこの国の誇りとするものの一つだ。多くの児童を収容する大校舎の建築物《たてもの》をこうした山間に望む景色は、一寸他の地方に見られない。そういう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らない程の大校舎を建築した。その高い玻璃窓《ガラスまど》は町の額のところに光って見える。
こういう土地だから、良い教育家に成ろうと思う青年の多いのも不思議は無い。種々《さまざま》な家の事情からして遠く行かれないような学問好きな青年は、多く国に居て身を立てることを考える。毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の数は可なり多い。私達の学校にも、その準備の為に一二年在学する生徒がよくある。
一体にこの山国では学者を尊重する気風がある。小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。又、社会上の位置から言っても割合に尊敬を払われている。その点は都会の教育家などの比でない。新聞記者までも「先生」として立てられる。長野あたりから新聞記者を聘《へい》して講演を聴くなぞはここらでは珍しくない。何か一芸に長じたものと見れば、そういう人から新智識を吸集しようとする。小諸辺のことで言ってみても、名士先生を歓迎する会は実に多い。あだかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。
御蔭で私もここへ来てから種々《いろいろ》な先生方の話を拝聴することが出来た。故福沢諭吉氏も一度ここを通られて、何か土産話を置いて行かれたとか。その事は私は後で学校の校長から聞いた。朝鮮亡命の客でよく足を留めた人もある。旅の書家なぞが困って来れば、相応に旅費を持たせて立たせるという風だ。概して、軍人も、新聞記者も、教育家も、美術家も、皆な同じように迎えらるる傾きがある。
こうした熱心な何もかも同じように受入れようとする傾きは、一方に於いて一種重苦しい空気を形造っている。強《し》いて言えば、地方的単調……その為には全く気質を異にする人でも、同じような話しか出来ないようなところがある。
それから佐久あたりには殊に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。ここには極くノンキな人もいるが又非常に理窟《りくつ》ッぽい人もいる。
何故こう信州人は理窟ッぽいだろう、とはよく聞く話だが、一体に人の心が激しいからだと思う。槲《かしわ》の葉が北風に鳴るように、一寸したことにも直《すぐ》に激《げき》し顫《ふる》えるような人がある。それにつけて思出すことは、私が小諸へ来たばかりの時、青年会を起そうという話が町の有志者の間にあった。一同光岳寺の広間に集った時は、盛んな議論が起った。私達の学校のI先生なぞは、若い人達を相手に薄暗くなるまでも火花を散らしたものだ。皆な草臥《くたび》れて、規則だけは出来たが、到頭その青年会はお流れに成って了ったことが有った。
一方に、極く静かな心を持った人と言えば、私達の学校で植物科を受持っているT君なぞがその一人であろう。ほんとに学者らしい、そして静かな心だ。どんな場合でも、私はT君の顔色の変ったのを見たことが無い。小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。T君の顔を見ると私は学校中で誰に逢うよりも安心する。
山に住む人々の三
警察と鉄道に従事する人達は他郷からの移住者が多い。町の平和を監督する署長さんと言えば、大抵他の地方の人だ。ここの巡査の中にはでも土地から出て奉職する人なぞがあって、ポクポクと親しみのある靴の音をさせる。
鉄道の方の人達は停車場の周囲《まわり》に全く別に世界を造っている。忍耐力の強い越後人より外に、この山の上の鉄道生活に堪《た》え得るものは無いとも言われている。大手に住む話好きな按摩《あんま》から、今の駅長のことを聞いたことが有った。この人は新橋から直江津《なおえつ》に移り、車掌を五年勤め、それから助役に七年の月日を送って来たという。同じ山の上に住んでも、こうした懸
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