私も旅の心を慰める為に、すこしばかり雲の日記なぞをつけて見ているが、こう的確に専門家から問を出された時は、一寸返事に困った。

     鉄道草

 鉄道が今では中仙道《なかせんどう》なり、北国《ほっこく》街道なりだ。この千曲川の沿岸に及ぼす激烈な影響には、驚かれるものがある。それは静かな農民の生活までも変えつつある。
 鉄道は自然界にまで革命を持来《もちきた》した。その一例を言えば、この辺で鉄道草と呼んでいる雑草の種子は鉄道の開設と共に進入し来《きた》ったものであるという。野にも、畠にも、今ではあの猛烈な雑草の蔓延《まんえん》しないところは無い。そして土質を荒したり、固有の草地を制服したりしつつある。

     屠牛《とぎゅう》の一

 上田の町はずれに屠牛場のあることは聞いていたがそれを見る機会もなしに過ぎた。丁度上田から牛肉を売りに来る男があって、その男が案内しようと言ってくれた。
 正月の元日だ。新年早々屠牛を見に行くとは、随分|物数寄《ものずき》な話だとは思ったが、しかし私の遊意は勃々《ぼつぼつ》として制《おさ》え難いものがあった。朝早く私は上田をさして小諸の住居《すまい》を出た。
 小諸停車場には汽車を待つ客も少い。駅夫等は集って歌留多《かるた》の遊びなぞしていた。田中まで行くと、いくらか客を加えたが、その田舎らしい小さな駅は平素《いつも》より更に閑静《しずか》で、停車場の内で女子供の羽子をつくさまも、汽車の窓から見えた。
 初春とは言いながら、寒い黄ばんだ朝日が車窓の硝子《ガラス》に射し入った。窓の外は、枯々な木立もさびしく、野にある人の影もなく、ひっそりとして雪の白く残った谷々、石垣の間の桑畠《くわばたけ》、茶色な櫟《くぬぎ》の枯葉なぞが、私の眼に映った。車中にも数えるほどしか乗客がない。隅《すみ》のところには古い帽子を冠り、古い外套《がいとう》を身に纏《まと》い赤い毛布《ケット》を敷いて、まだ十二月らしい顔付しながら、さびしそうに居眠りする鉄道員もあった。こうした汽車の中で日を送っている人達のことも思いやられた。(この山の上の単調な鉄道生活に堪《た》え得るものは、実際は越後人ばかりであるとか)
 上田町に着いた。上田は小諸の堅実にひきかえ、敏捷《びんしょう》を以て聞えた土地だ。この一般の気風というものも畢竟《つまり》地勢の然らしめるところで、小諸のような砂地の傾斜に石垣を築いてその上に骨の折れる生活を営む人達は、勢い質素に成らざるを得ない。寒い気候と痩《や》せた土地とは自然に勤勉な人達を作り出した。ここの畠からは上州のような豊富な野菜は受取れない。堅い地大根の沢庵《たくあん》を噛《か》み、朝晩|味噌汁《みそしる》に甘んじて働くのは小諸である。十年も昔に流行《はや》ったような紋付羽織を祝儀不祝儀に着用して、それを恥ともせず、否むしろ粗服を誇りとするが小諸の旦那《だんな》衆である。けれども私は小諸の質素も一種の形式主義に落ちているのを認める。私は、他所《よそ》で着て来たやわらか物を脱いでそれを綿服に着更《きが》えながら小諸に入る若い謀反《むほ》人のあることを知っている。要するに、表面《おもて》は空《むな》しく見せてその実豊かに、表面は無愛想でもその実親切を貴ぶのが小諸だ。これが生活上の形式主義を産む所以《ゆえん》であろうと思う。上田へ来て見ると、都会としての規模の大小はさて措《お》き、又実際の殷富《とみ》の程度はとにかく、小諸ほど陰気で重々しくない。小諸の商人は買いたか御買いなさいという無愛想な顔付をしていて、それで割合に良い品を安く売る。上田ではそれほどノンキにしていられない事情があると思う。絶えず周囲に心を配って、旧《ふる》い城下の繁昌を維持しなければ成らないのが上田の位置だ。店々の飾りつけを見ても、競って顧客の注意を引くように快く出来ている。塩、鰹節《かつぶし》、太物《ふともの》、その他上田で小売する商品の中には、小諸から供給する荷物も少くないという。
 思わず私は山の上にある都会の比較を始めた。その日は牛のつぶし初《ぞ》めとかで、屠牛場の取締をするという肉屋を訪ねると、例の籠《かご》を肩に掛けて小諸まで売りに来る男が私を待っていてくれた。私は肉屋の亭主にも逢った。この人は口数は少いが、何となく言葉に重味があって、牛のことには明るい人物だった。
 肉屋の若者等は空車をガラガラ言わせて町はずれの道を引いて行った。私達もその後に随《つ》いて、細い流を渡り、太郎山の裾へ出た。新しい建物の前に、鋭い眼付の犬が五六匹も群がっていた。そこが屠牛場だった。
 黒く塗った門を入ると、十人ばかりの屠手が居た。その中でも重立った頭《かしら》は年の頃五十あまり、万事に老練な物の言振りをする男で、肥った頬に愛嬌《あいきょう》を見せながら、肉屋の亭主に新年の挨拶などをした。検査室にも、待合室にも松が飾ってあって、繋留場《けいりゅうじょう》では赤い牝牛《めうし》が一頭と、黒牛が二頭繋いであった。
 中央の庭には一頭の豚を入れた大きな箱も置いてあった。この庭は低い黒塗りの板塀《いたべい》を境にして、屠場《とじょう》に続いている。

     屠牛の二

 黒い外套に鳥打帽を冠った獣医が入って来た。人々は互に新年の挨拶を取換《とりかわ》した。屠手の群はいずれも白い被服《うわっぱり》を着け、素足に冷飯《ひやめし》草履という寒そうな風体《ふうてい》で、それぞれ支度を始める。庭の隅にかがんで鋭い出刃包丁《でばぼうちょう》を磨《と》ぐのもある。肉屋の亭主は板塀に立て掛けてあった大鉞《おおまさかり》を取って私に示した。薪割《まきわり》を見るような道具だ。一方に五六寸ほどの尖《とが》った鉄管が附けてある。その柄には乾いた牛の血が附着していた。屠殺《とさつ》に用いるのだそうだ。肉屋の亭主は沈着《おちつ》いた調子で、以前には太い釘《くぎ》の形状《かたち》したのを用いたが、この管状の方が丈夫で、打撃に力が入ることなどを私に説明《ときあか》した。
 南部産の黒い牡牛《おうし》が、やがて中央の庭へ引出されることに成った。その鼻息も白く見えた。繋いであった他の二頭は遽《にわ》かに騒ぎ始めた。屠手の一人は赤い牡牛の傍《そば》へ寄り、鼻面《はなづら》を押えながら「ドウ、ドウ」と言って制する。その側には雑種の牡牛が首を左右に振り、繋がれたまま柱を一廻りして、しきりに逃《のが》れよう逃れようとしている。殆《ほと》んど本能的に、最後の抵抗を試みんとするがごとくに見えた。
 死地に牽《ひ》かれて行く牡牛はむしろ冷静で、目には紫色のうるみを帯びていた。皆な立って眺《なが》めている中で獣医は彼方此方《あちこち》と牛の周囲《まわり》を廻って歩きながら、皮をつまみ、咽喉《のど》を押え、角を叩きなどして、最後に尻尾《しっぽ》を持上げて見た。
 検査が済んだ。屠手は多勢|寄《よ》って群《たか》って、声を励ましたり、叱ったりして、じッとそこに動かない牛を無理やりに屠場の方へ引き入れた。屠場は板敷で、丁度浴場の広い流し場のように造られてある。牛の油断を見すまして、屠手の一人は細引を前後の脚《あし》の間に投げた。それをぐッと引絞めると、牛は中心を保てない姿勢に成って、重い体躯《からだ》を横倒しに板の間の上に倒れた。その前額のあたりを目がけて、例の大鉞《おおまさかり》の鋭い尖った鉄管を骨も砕けよとばかりに打ち込むものがあった。牛は目を廻し、足をバタバタさせて、鼻息も白く、幽《かす》かな呻《うめ》き声を残して置いて気息《いき》も絶えんとした。
 この南部牛のまだ気息の残ったのを取繞《とりま》いて、屠手のあるものは尻尾を引き、あるものは細引を引張り、あるものは出刃でもって咽喉のあたりを切った。そのうちに多勢して、倒れた牛の上に乗って、茶色な腹の辺《あたり》と言わず、背と言わず、とんとん踏みつけると、赤黒い血が切られた咽喉のところから流れ出した。砕けた前額の骨の間へは棒を深く差込んで抉《えぐ》り廻すものもあった。気息のあるうちは、牛は身を悶《もだ》えて、呻《うめ》いたり、足をヒクヒクさせたりして苦んだが、血が流れ出した頃には全く気息も絶えた。
 黒い大きな牛の倒れた姿が――前後の脚は一本ずつ屠場の柱にくくりつけられたままで、私達の眼前《めのまえ》に横たわっていた。屠手の一人はその茶色の腹部の皮を縦に裂いて、見る間に脚の皮を剥《む》き始めた。また一人は、例の大鉞を振って、牛の頭を二つ三つ打つうちに、白い尖った角がポロリと板の間へ落ちた。この南部牛の黒い毛皮から、白い脂肪に包まれた中身が顕《あら》われて来たのは、間もなくであった。
 赤い牝牛が屠場へ引かれて来た。

     屠牛の三

 赤い牝牛に続いて、黒い雑種の牡も、型の如くに瞬《またた》く間に倒された。広い屠場には三頭の牛の体が横たわった。ふと板塀の外に豚の鳴き騒ぐ声が起った。庭へ出て見ると、白い、肥った、脚の短い豚が死物狂いに成って、哀《かな》しく可笑《おか》しげな声を揚げながら、庭中逃げ廻っていた。子供まで集って来た。追うものもあれば、逃げるものもあった。肉屋の亭主が手早く細引を投げ掛けると、数人その上に馬乗りに乗って脚を締めた。豚はそのまま屠場へ引摺《ひきず》られて行った。
「牛は宜《よ》う御座んすが、豚は喧《やかま》しくって不可《いけ》ません。危いことなぞは有りませんが、騒ぐもんですから――」
 こういう肉屋の亭主に随いて、復た私は屠場へ入って見た。豚は五人掛りで押えられながらも、鼻を動かしたり、哀しげに呻《うな》って鳴いたりした。牛の場合とは違って、大鉞などが用いられるでも無かった。屠手はいきなり出刃を揮《ふる》って生きている豚の咽喉を突いた。これに私はすくなからず面喰《めんくら》って、眺めていると豚は一層声を揚げて鳴いた。牛の冷静とは大違いだ。豚の咽喉からは赤い血が流れて出た。その毛皮が白いだけ、余計に血の色が私の眼に映った。三人ばかりの屠手がその上に乗ってドシドシ踏み付けるかと見るうちに、忽《たちま》ち豚の気息《いき》は絶えた。
 年をとった屠手の頭《かしら》は彼方此方《あちこち》と屠場の中を廻って指図しながら歩いていた。その手も、握っている出刃も、牛と豚の血に真紅《まっか》く染まって見えた。最初に屠《ほふ》られた南部牛は、三人掛りで毛皮も殆んど剥《は》ぎ取られた。すこし離れてこの光景《ありさま》を眺めると、生々《なまなま》とした毛皮からは白い気《いき》の立つのが見える。一方には竹箒《たけぼうき》で板の間の血を掃く男がある。蹲踞《しゃが》んで出刃を磨《みが》くものもある。寒い日の光は注連《しめ》を飾った軒先から射し入って、太い柱や、そこに並んで倒れている牛や、白い被服《うわっぱり》を着けた屠手等の肩なぞを照らしていた。
 そのうちに、ある屠手の出刃が南部牛の白い腹部のあたりに加えられた。卵色の膜に包まれた臓腑《ぞうふ》がべろべろと溢《あふ》れ出た。屠手の中には牛の爪先を関節のところから切り放して、土間へ投出《ほうりだ》すのもあり、胴の中程へ出刃を入れて肉を裂くものもあった。牛の体からは膏《あぶら》が流れて、それが血のにおいに混って、屠場に満ちた。

     屠牛の四

 私は赤い牝牛が「引割《ひきわり》」という方法に掛けられるのを見た。それは鋸《のこぎり》で腰骨を切開いて、骨と骨の間に横木を入れ、後部《うしろ》の脚に綱を繋いで逆さに滑車で釣《つる》し上げるのだ。屠手は三人掛りでその綱を引いた。
「そら、巻くぜ」
「ああまだ尻尾を切らなくちゃ」
 屠手の頭《かしら》は手ずからその尻尾を切り放った。
「さあー車々」と言うものもあれば、「ホラ、よいせ」と掛声するものもあって、牝牛の体は柱と柱の間に高く逆さに掛った。脊髄《あばら》の中央から真二つにそれを鋸で引割るのだ。ザクザクと、まるで氷でも引くように。
「どうも切れなくて不可《いけない》」
「鋸が切れないのか、手が切れないのか」
 と頭は頭らしいことを言って
前へ 次へ
全19ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング