に成った。
 揚羽屋には、うどんもある。尤《もっと》も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺《めん》類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐《ばんさん》に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦《そば》はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走《ちそう》に成っている。それから、「お煮掛《にかけ》」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋《おおなべ》のかけてある炉辺《ろばた》に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱《あたたかさ》を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何《いかが》でごわす」などと言って、内儀さんが大丼《おおどんぶり》に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供|相撲《ずもう》に弓を取った自慢話なぞを始める。
 そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤《すす》けた壁も、汚《よご》れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。
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