ござりますわい」
 私は家のものに吩咐《いいつ》けて、この女に柿をくれた。女はそれを風呂敷包にして、家のものにまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
 夏の頃から見ると、日は余程南よりに沈むように成った。吾家の門に出て初冬の落日を望む度に、私はあの「浮雲似[#二]故丘[#一]」という古い詩の句を思出す。近くにある枯々な樹木の梢は、遠い蓼科《たでしな》の山々よりも高いところに見える。近所の家々の屋根の間からそれを眺めると丁度日は森の中に沈んで行くように見える。
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   その八


     一ぜんめし

 私は外出した序《ついで》に時々立寄って焚火《たきび》にあてて貰《もら》う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処《おんやすみどころ》、揚羽屋《あげばや》とした看板の出してあるのがそれだ。
 私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子《でし》を相手にして、石菖蒲《せきしょうぶ》、万年青《おもと》などの青い葉に眼を楽ませながら錯々《せっせ》と着物を造《こしら》える仕立屋
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