ともいう。
祭の前夜
春蚕《はるこ》が済む頃は、やがて土地では、祇園祭《ぎおんまつり》の季節を迎える。この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。寺院《おてら》の僧侶《ぼうさん》すらそれを一年の主なる収入に数える。私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞える位だ。こういう土地だから、暗い蚕棚《かいこだな》と、襲うような臭気と、蚕の睡眠《ねむり》と、桑の出来不出来と、ある時は殆《ほと》んど徹夜で働いている男や女のことを想ってみて貰《もら》わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
秤を腰に差して麻袋を負《しょ》ったような人達は、諏訪《すわ》、松本あたりからこの町へ入込んで来る。旅舎《やどや》は一時|繭買《まゆかい》の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景《さま》も、何となく町々に活気を添えるのである。
二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸《ようや》く晴れた。霖雨《ながあめ》の後の日光は殊《こと》にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗《
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