だ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓《さんてん》も望まれるという。池の辺《ほとり》に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。仕立屋は庭の高麗檜葉《こうらいひば》を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹《ひ》かなかった。
 私達は眺望《ちょうぼう》のある二階の部屋へ案内された。田舎縞《いなかじま》の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店《おおだな》の主人らしく見えた。でっぷり肥った番頭も傍《かたわら》へ来た。池の鯉《こい》の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。階下《した》には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。
 一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。番頭は、私達の前にある冷豆腐《ひややっこ》の皿にのみ花鰹節《はながつお》が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油《しょうゆ》ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節《おかか》をすこしかいて来ておくれ」
 と楼梯《はしごだん》のところから
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