の方へ弓をひきに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が集って十五間ばかりの矢場を造ってある。私も学士に誘われて、学校から直《じか》に城址《しろあと》の方へ行くことにした。
 はじめて私が学士に逢った時は、唯《ただ》こんな田舎へ来て隠れている年をとった学者と思っただけで、そう親しく成ろうとは思わなかった。私達は――三人の同僚を除いては、皆な旅の鳥で、その中でも学士は幾多の辛酸を嘗《な》め尽して来たような人である。服装《みなり》なぞに極く関《かま》わない、授業に熱心な人で、どうかすると白墨で汚れた古洋服を碌《ろく》に払わずに着ているという風だから、最初のうちは町の人からも疎《うと》んぜられた。服装と月給とで人間の価値《ねうち》を定《き》めたがるのは、普通一般の人の相場だ。しかし生徒の父兄達も、次第に学士の親切な、正直な、尊い性質を認めないわけに行かなかった。これ程何もかも外部《そと》へ露出した人を、私もあまり見たことが無い。何時の間にか私はこの老学士と仲好《なかよし》に成って自分の身内からでも聞くように、その制《おさ》えきれないような嘆息や、内に憤る声までも聞くように成った。
 私達は揃《そろ
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