、大鉞などが用いられるでも無かった。屠手はいきなり出刃を揮《ふる》って生きている豚の咽喉を突いた。これに私はすくなからず面喰《めんくら》って、眺めていると豚は一層声を揚げて鳴いた。牛の冷静とは大違いだ。豚の咽喉からは赤い血が流れて出た。その毛皮が白いだけ、余計に血の色が私の眼に映った。三人ばかりの屠手がその上に乗ってドシドシ踏み付けるかと見るうちに、忽《たちま》ち豚の気息《いき》は絶えた。
年をとった屠手の頭《かしら》は彼方此方《あちこち》と屠場の中を廻って指図しながら歩いていた。その手も、握っている出刃も、牛と豚の血に真紅《まっか》く染まって見えた。最初に屠《ほふ》られた南部牛は、三人掛りで毛皮も殆んど剥《は》ぎ取られた。すこし離れてこの光景《ありさま》を眺めると、生々《なまなま》とした毛皮からは白い気《いき》の立つのが見える。一方には竹箒《たけぼうき》で板の間の血を掃く男がある。蹲踞《しゃが》んで出刃を磨《みが》くものもある。寒い日の光は注連《しめ》を飾った軒先から射し入って、太い柱や、そこに並んで倒れている牛や、白い被服《うわっぱり》を着けた屠手等の肩なぞを照らしていた。
そ
前へ
次へ
全189ページ中129ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング