いか、人は死ななければ成らないか。この王子の逢着《ほうちゃく》する人生の疑問がいかにも簡素に表してある。最後に出た門の外で道者に逢った。そこで王子は心を決して、このLifeを解かんが為に、あらゆるものを破り捨てて行った。
 戯曲的ではないか。少年の頭脳にも面白いように出来ているではないか。私はこんな話を生徒にした後で、多勢居る諸君の中には実業に志すものもあろうし、軍人に成ろうというものもあろう、しかし諸君の中にはせめてこの青年の王子のように、あらゆるものを破り捨てて、坊さんのような生涯を送る程の意気込もあって欲しい、と言って聞かせた。
 私は生徒の方を見た。生徒は私の言った意味を何と釈《と》ったか、いずれも顔を見合せて笑った。中には妙な顔をして、頭を擁《かか》えているものもあった。

     学窓の二

 樹木が一年に三度ずつ新芽を吹くとは、今まで私は気がつかなかった。今は九月の若葉の時だ。
 学校の校舎の周囲《まわり》には可成《かなり》多くの樹木を植えてある。大きな桜の実の熟する頃なぞには、自分等の青年時代のことまでも思い起させたが、こうして夏休過に復たこの庭へ来て見ると、何となく白ッぽい林檎《りんご》の葉や、紅味を含んだ桜や、淡々しい青桐《あおぎり》などが、校舎の白壁に映り合って、楽しい陰日向《かげひなた》を作っている。楽しそうに吹く生徒の口笛が彼方此方《あちこち》に起る。テニスのコートを城門の方へ移してからは、桜の葉蔭で角力《すもう》を取るものも多い。
 学校の帰りに、夏から病んでいるBの家を訪ねた。その家の裏を通り抜けて石段を下りると、林檎の畠がある。そこにも初秋らしい日が映《あた》っていた。

     田舎《いなか》教師

 朝顔の花を好んで毎年培養する理学士が、ある日学校の帰途《かえりみち》に、新しい弟子《でし》の話を私にして聞かせた。
 弟子と言っても朝顔を培養する方の弟子だ。その人は町に住む牧師で、一部の子供から「日曜学校の叔父さん」と懐《なつ》かしがられている。
 この叔父さんの説教最中に夕立が来た。まだ朝顔の弟子入をしたばかりの時だ。彼の心は毎日楽しんでいる畑の方へ行った。大事な貝割葉《かいわれば》の方へ行った。雨に打たれる朝顔|鉢《ばち》の方へ行った。説教そこそこにして、彼は夕立の中を朝顔棚の方へ駈出《かけだ》した。
「いかにも田舎の牧師さ
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