千曲川のスケッチ
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)樹《しげる》さん

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|綴《まと》める

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ます記号、1−2−23]

 [#…]:返り点
 (例)浮雲似[#二]故丘[#一]
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     序

 敬愛する吉村さん――樹《しげる》さん――私は今、序にかえて君に宛《あ》てた一文をこの書のはじめに記《しる》すにつけても、矢張《やっぱり》呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸《ようや》く今|纏《まと》めることが出来た。
 樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托《たく》して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋|久松町《ひさまつちょう》の小学校へ通われる頃は、私は白金《しろかね》の明治学院へ通った。君と私とは殆《ほと》んど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸《こもろ》で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学を卒《お》えようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君|独《ひと》りで来られた。この書の中にある小諸|城址《じょうし》の附近、中棚《なかだな》温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地《こころもち》がする。
「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」
 これは私が都会の空気の中から脱け出して、あの山国へ行った時の心であった。私は信州の百姓の中へ行って種々《いろいろ》なことを学んだ。田舎《いなか》教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の
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