子弟を教えるのが勤めであったけれども、一方から言えば私は学校の小使からも生徒の父兄からも学んだ。到頭七年の長い月日をあの山の上で送った。私の心は詩から小説の形式を択《えら》ぶように成った。この書の主《おも》なる土台と成ったものは三四年間ばかり地方に黙していた時の印象である。
 樹さん、君のお父さんも最早《もう》居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川《ちくまがわ》の川上から川下までを生々《いきいき》と眼の前に見ることが出来る。あの浅間の麓《ふもと》の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅《か》ぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。このスケッチの中で知友|神津猛《こうづたけし》君が住む山村の附近を君に紹介しなかったのは遺憾である。私はこれまで特に若い読者のために書いたことも無かったが、この書はいくらかそんな積りで著《あらわ》した。寂しく地方に住む人達のためにも、この書がいくらかの慰めに成らばなぞとも思う。

  大正元年 冬
[#地から1字上げ]藤村
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   その一


     学生の家

 地久節には、私は二三の同僚と一緒に、御牧《みまき》ヶ原《はら》の方へ山遊びに出掛けた。松林の間なぞを猟師のように歩いて、小松の多い岡の上では大分|蕨《わらび》を採った。それから鴇窪《ときくぼ》という村へ引返して、田舎の中の田舎とでも言うべきところで半日を送った。
 私は今、小諸の城址《しろあと》に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている。君はこういう山の上への春がいかに待たれて、そしていかに短いものであると思う。四月の二十日頃に成らなければ、花が咲かない。梅も桜も李《すもも》も殆《ほと》んど同時に開く。城址の懐古園《かいこえん》には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。すると、毎年きまりのように風雨がやって来て、一時《いちどき》にすべての花を浚《さら》って行って了《しま》う。私達の教室は八重桜の樹で囲繞《い
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