頬杖《ほおづえ》突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か鼠《ねずみ》を入れると直《すぐ》に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕《つかま》えて戻って来た。それを学士にすすめた。
「蜂《はち》ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫《さ》すぞ螫すぞ」
口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反《そ》らして、螫されまいとする様子をした。その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」というものもある。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶《もだ》えて、死んだ。
「最早《もう》マイりましたかネ」
と学士も笑った。
その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園《かいこえん》の方へ弓をひきに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が集って十五間ばかりの矢場を造ってある。私も学士に誘われて、学校から直《じか》に城址《しろあと》の方へ行くことにした。
はじめて私が学士に逢った時は、唯《ただ》こんな田舎へ来て隠れている年をとった学者と思っただけで、そう親しく成ろうとは思わなかった。私達は――三人の同僚を除いては、皆な旅の鳥で、その中でも学士は幾多の辛酸を嘗《な》め尽して来たような人である。服装《みなり》なぞに極く関《かま》わない、授業に熱心な人で、どうかすると白墨で汚れた古洋服を碌《ろく》に払わずに着ているという風だから、最初のうちは町の人からも疎《うと》んぜられた。服装と月給とで人間の価値《ねうち》を定《き》めたがるのは、普通一般の人の相場だ。しかし生徒の父兄達も、次第に学士の親切な、正直な、尊い性質を認めないわけに行かなかった。これ程何もかも外部《そと》へ露出した人を、私もあまり見たことが無い。何時の間にか私はこの老学士と仲好《なかよし》に成って自分の身内からでも聞くように、その制《おさ》えきれないような嘆息や、内に憤る声までも聞くように成った。
私達は揃《そろ
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