《てっこう》をはめ、浅黄《あさぎ》の襷《たすき》を掛け、腕をあらわにして、働いている女もあった。草土手の上に寝かされた乳呑児が、急に眼を覚まして泣出すと、若い母は鍬を置いて、その児の方へ馳けて来た。そして、畠中で、大きな乳房の垂下った懐《ふところ》をさぐらせた。私は無心な絵を見る心地《ここち》がして、しばらくそこに立って、この母子《おやこ》の方を眺《なが》めていた。草土手の雑草を刈取ってそれを背負って行く老婆もあった。
 与良町の裏手で、私は畠に出て働いているK君に逢った。K君は背の低い、快活な調子の人で、若い細君を迎えたばかりであったが、行く行くは新時代の小諸を形造る壮年《わかもの》の一人として、土地のものに望を嘱されている。こういう人が、畠を耕しているということも面白く思う。
 胡麻塩頭《ごましおあたま》で、目が凹《くぼ》んで、鼻の隆《たか》い、節々のあらわれたような大きな手を持った隠居が、私達の前を挨拶《あいさつ》して通った。腰には角《つの》の根つけの付いた、大きな煙草入をぶらさげていた。K君はその隠居を指して、この辺で第一の老農であると私に言って聞かせた。隠居は、何か思い付いたように、私達の方を振返って、白い短い髭《ひげ》を見せた。
 肥桶《こやしおけ》を担《かつ》いだ男も畠の向を通った。K君はその男の方をも私に指して見せて、あの桶の底には必《きっ》と葱《ねぎ》などの盗んだのが入っている、と笑いながら言った。それから、私は髪の赤白髪《あかしらが》な、眼の色も灰色を帯びた、酒好らしい赤ら顔の農夫にも逢った。

     古城の初夏

 私の同僚に理学士が居る。物理、化学なぞを受持っている。
 学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。机の上には、大理石の屑《くず》、塩酸の壜《びん》、コップ、玻璃管《ガラスくだ》などが置いてあった。蝋燭《ろうそく》の火も燃えていた。学士は、手にしたコップをすこし傾《かし》げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋《ふた》の間から流れた。蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
 無邪気な学生等は学士の机の周囲《まわり》に集って、口を開いたり、眼を円《まる》くしたりして眺めていた。微笑《ほほえ》むもの、腕組するもの、
前へ 次へ
全95ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング