も争われない。紅葉山人のような作者ですら雅俗折衷の文体と言文一致の間を往来した。何と言ってもあの頃は、古くからある文章の約束がまだ重く残って、言葉の感情とか、その陰影とかの自然な流露を妨げていた。この状態はどうしても行き詰る。そこでだんだん変化と自由とを求めるようになって行って、これまで物を書いていた作者達も今までの表現の方法では、やりきれなくなって行ったかと思う。私は斉藤緑雨君のような頭の好い人がそういう点で苦しみぬいたことを知っている。同君も文章そのものの苦労が大き過ぎて、「油地獄」や「かくれんぼ」に見せたような作者としての天禀《てんびん》を十分に延ばし切ることが出来なかったのではなかろうかと思う。
 その後に、鴎外漁史はめずらしく創作の筆を執って、「そめちがえ」一篇を「新小説」誌上に発表した。私はそれを読んで漁史のような人の上にもある一転機の来たことを感じた。「そめちがえ」の砕けた題目が示すように、漁史は最早あの「文づかい」や「うたかたの記」に見るような高い調子で押し通そうとする人ではなかったらしい。その頃には、透谷君や一葉女史の短い活動の時はすでに過ぎ去り、柳浪にはやや早く、蝸牛庵主《かぎゅうあんしゅ》は「新|羽衣《はごろも》物語」を書き、紅葉山人は「金色夜叉《こんじきやしゃ》」を書くほどの熟した創作境に達している。鴎外漁史の「そめちがえ」を出されたころに明治二十年代のはじめを顧みると、文壇は実に隔世の感があった。十年の月日は明治の文学者に取って短い時ではなかった。
 おそらく二十年代の末から三十年代のはじめへかけては、明治文学者の生涯の中でも特に動きのある時代で、あの緑雨君が鴎外漁史や幸田露伴氏等との交遊のあったのもあの頃であり、諸先輩が新進作家の作品に対して合評会なぞを思い立ったのもあの時代であったかと思う。
 思えば、明治文学の早い開拓者の多くは、欧羅巴《ヨーロッパ》からの文学を取り入れる上に就いて、何《いず》れも要領の好い人達であった。そこに自国の特色がある。これは徳川時代の文学者が遺産を受けついだからでもあり、支那《しな》文学の長い素養からも来ていると思う。ともあれ、他の当時の文学者の多くがまだ十八世紀の英吉利《イギリス》文学を目標としていた中で、独逸《ドイツ》本国の方から十九世紀にあるものを感知して帰って来たところに鴎外漁史の強味があった。その人
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