いたが、その店から送り届けてくれたバルザックの小説で、英訳の「土」も長くわたしの心に残った。不思議にもそれらの近代文学に親しんでみることが反って古くから自分等の国にあるものの読み直しをわたしに教えた。あの溌剌《はつらつ》として人に迫るような「枕の草紙」に多くの学ぶべきもののあるのを発見したのも、その時であった。

 今から明治二十年代を振り返ってみることは、私に取って自分等の青年時代を振り返ってみることであるが、あの鴎外漁史なぞが「舞姫」の作によって文学の舞台に登場せられたのは二十年代も早い頃のことであり、「新著百種」に「文づかい」が出たのも二十四年の頃であったと思う。だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりと伝わらなくなり、多くの人に残る記憶も前後して朦朧《もうろう》としたものとなり勝ちであるが、明治の文学らしい文学はあの二十年代にはじまったと言っていい。今日明治文学として残っているものの一半は殆《ほとん》どあの十年間に動いた人達の仕事であるのを見ても、明治二十年代は筆執り物書くものが一斉に進むことの出来たような、若々しい一時代であったことが思われる。これには種々な理由があろう。当時は新日本ということが多くの人々によって考えられ、新しい作者を求める社会の要求の強かったことも、その理由の一つとして数えられよう。長谷川二葉亭《はせがわふたばてい》の「浮雲」があれほどの新しさを私達の胸中に喚《よ》び起したのも、その要求をみたし得たからであって、あれほど鮮《あざや》かに当時を反映し、当時を批評した作品もめずらしかった。一方にはまた、鴎外漁史のような人があって、レッシングの「俘《とりこ》」、アンデルセンの「即興詩人」、その他の名訳をつぎつぎに紹介せられたことも、当時の文学の標準を高める上に、少からぬ影響を多くの作者に与えた。「水沫集《みなわしゅう》」一巻は、青春の書というにはあまり老成なような気もするが、明治二十年代の早い春はあの集のどの頁《ページ》にも残っている。
 もし、明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあったろうに、それが最初のような純粋を失い、新鮮を失うようになって行ったに就いては、種々な原因がなくてはならない。
 ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事がまだまだ不十分なものであったこと
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