自身ですら自国に芽ぐんで来た言文一致の試みを採りあげるに躊躇《ちゅうちょ》していたほどの時代を考えると、山田美妙、長谷川二葉亭二氏などの眼のつけかたはさすがに早かったと思われる。
私は明治の新しい文学と、言文一致の発達とを切り離しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。我々の書くものが、古い文章の約束や云い廻しその他から、解き放たれて、今日の言文一致にまで達した事実は、決してあとから考えるほど無造作なものでない。先ず文学上の試みから始まって、それが社会全般にひろまって行き、新聞の論説から、科学上の記述、さては各人のやり取りする手紙、児童の作文にまで及んで来たに就いてはかなり長い年月がかかったことを思ってみるがいい。何んと云っても徳川時代に俳諧や浄瑠璃《じょうるり》の作者があらわれて縦横に平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を投げ入れたこと。それからあの国学者が万葉、古事記などを探求して、それまで暗いところにあった古い言葉の世界を今一度明るみへ持ち出したこと。この二つの大きな仕事と共に、明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根柢《こんてい》に横たわる基礎工事であったと私には思われる。わたしがこんなスケッチをつくるかたわら、言文一致の研究をこころざすようになったのも、一朝一夕に思い立ったことではなかった。
到頭、わたしは七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫《おさないかおる》君、有島|生馬《いくま》君、青木|繁《しげる》君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。わたしはよく小諸義塾の鮫島《さめじま》理学士や水彩画家丸山|晩霞《ばんか》君と連れ立ち、学校の生徒等と一緒に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出掛けた。このスケッチは、いろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。
底本:「千曲川のスケッチ」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年4月20日発行
1970(昭和45)年5月5日25刷改版
1998(平成10)年8月25日68刷
入力:割子田数哉
校正:松永正敏
2001年1月9日公開
2004年2月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(h
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