チは少くなかったが、人に示すべきものでもなかったので、その中から年若い人達の読み物に適しそうなもののみを選み出し、更にそれを書き改めたりなぞして、明治の末の年から大正のはじめへかけ当時西村|渚山《しょざん》君が編輯《へんしゅう》している博文館の雑誌「中学世界」に毎月連載した。「千曲川《ちくまがわ》のスケッチ」と題したのもその時であった。大正一年の冬、佐久良《さくら》書房から一巻として出版したが、それが小冊子にまとめてみた最初の時であった。
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実際私が小諸《こもろ》に行って、饑《う》え渇《かわ》いた旅人のように山を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山々――浅間、牙歯《ぎっぱ》のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それから淡い煙のような山巓《さんてん》の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。何んとなく私の内部には別のものが始まったような気がしました。
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これは後になってからの自分の回顧であるが、それほどわたしも新しい渇望を感じていた。自分の第四の詩集を出した頃、わたしはもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心からの要求はかなりはげしかったので、そのためにわたしは三年近くも黙して暮すようになり、いつ始めるともなくこんなスケッチを始め、これを手帳に書きつけることを自分の日課のようにした。ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家|三宅克巳《みやけかつみ》君が袋町というところに新家庭をつくって一年ばかり住んでおられ、余暇には小諸義塾の生徒をも教えに通われた。同君の画業は小諸時代に大に進み、白馬会の展覧会に出した「朝」の図なぞも懐古園附近の松林を描いたもののように覚えている。わたしは同君に頼んで画家の用いるような三脚を手に入れ、時にはそれを野外へ持ち出して、日に日に新しい自然から学ぶ心を養おうとしたこともある。浅間|山麓《さんろく》の高原と、焼石と、砂と、烈風の中からこんなスケッチが生れた。
過ぎ去った日のことをすこしここに書きつけてみる。わたしたちの旧《ふる》い「文学界」、あの同人の仕事もわたしが仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかりも続いた仕事が今日になって反《かえ》って意外な人々に認められ、若いロマン
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